1965年に「カラス」で優勝してレース界に首を突っ込むようになってから、いろいろと専門誌の取材は受けてきましたが、特に、ジュネーブ・ショーで「童夢-零」を発表して以来の取材ラッシュは想像を超えていましたから、雑誌のクリッピングのファイルもTVの録画も1978年を境に激増しています。お陰様で、多くの人達に童夢という名前を覚えてもらい、その知名度は、その後の事業展開において絶大な後ろ盾となってくれました。
雑誌の記事も録画も、あまりに多いので選ぶこともままなりませんから、適当にピックアップして公開しておきます。
- 「サーキットの肖像 第22回 林みのる」(媒体名 出井耕也)
個人的な部分を、それも、原点の辺りから掘り下げてくれています。 - 「JFRA脱会までの経緯と、全日本F3000再興策を考える」(「AUTOSPORT」 林みのる 1994)
自らが設立した「JFRA」を飛び出して文句だけ言い続けているという図式でしたが、話題にもなりませんでした。 - 「林みのるに訊け!(前編、後編)」(媒体名 大串 信)
私を最も多く取材している大串君のインタビュー記事ですが、大串君とは自動車レースに対する根本的な視点が異なるので、いつも、ややフラストレーションの残る記事となります。 - 「ああ、日本の息子よ」(「道徳と特別活動」 林みのる 1996)
いかにも怪しげな本なので断っていましたが、何回かオファーを頂いたのと、当時、調べた範囲では問題ないと思えたので、教育不要論者の私には書きようのない「教育随想」というお題のエッセイながら、思っていることを素直に書いていますから、依頼した人は後悔しているでしょう。私が50歳、息子が2歳の時のエッセイですが、この記事が、当時の義理の父に見つかり、自らの創業した会社の跡取りの可能性も頭にあった義父からは「立派な大学出してしっかりと育てろ」と怒られました。 - 「ガキ大将 林みのる」(「悠々の達人」 1998)
実際に、食うや食わずの命がけのレーシングカー作り人生でしたが、見る人が見れば「悠々の達人」に見えるようです。 - 「サーキット新人物伝 林みのる」(「AUTUSPORT」 高桐唯詩 1994)
高桐さんには、よくサーキットで立ち話程度には質問されましたが、本格的なインタビューは初めてでした。思いがけずの真面な質問におやっという感じでしたが、私が存じ上げていなかっただけで、放送作家としても活躍されていた文化度の高いジャーナリストでした。 - 「レースと人 林 穗」(「auto technic」 今宮 純 1978)
「童夢-零」をジュネーブショーで発表した直後のインタビュー記事です。まだルマンのルの字もありません。 - 「スカGの逆鱗 林ミノル」(「CG」 林みのる)
一番心に残る車について一筆と言われて書きましたが、あまりに若い時にあまりに特殊な車に乗っていましたから、私にとっては、この生沢徹ちゃんのスペアマシンを街乗りに使っていた1年半くらいを越える車はありません。 - 「村の鎮守のお祭りで・・・・・」(「auto technic」 林みのる)
業界では、結構、有名な記事です。ここでは表現しきれていませんが、要するに、松本惠二をクビにするために童夢との関係を理由に使ったから、怒った私が童話を装って嫌味を言っている訳ですが、この記事のコピーはBS社内を駆け巡り、結果、それ以降、BSは童夢にタイヤを供給しなくなります。童夢のNSXがBSだったのは、困ったホンダが一括して供給を受けて各チームに配布するという形で手打ちをしたからです。 - 「心に秘める思いをブラックタイに」(詳細不明)
確か、徳大寺有恒氏からの依頼で、当時、京都の宝ヶ池にあった童夢の本社工場でフォーマルなパーティを装った写真を撮るという話になりましたが、ついでに、レーシングカーの工場にふさわしいモデルも集めてくれと頼まれ、松本惠二などに来てもらって撮りました。モデルやってます。 - 「The Bigman」(詳細不明 1990)
詳細不明ですが、結構、真面なルートから依頼が来たように記憶しています。モデルやってます。 - 「走れ! 童夢・ゼロ(漫画)」(「コロコロコミック」 塚本俊昭)
ジュネーブショーまでの話が30ページの読み切りの漫画に登場しましたが、著作権の関係もありますので、一部を掲示しておきます。 - 「栄光なき天才たち(漫画)」(「JUMP COMICS」森田信吾
これは「浮谷東次郎」を題材とした漫画ですが、そこに私も端役で登場しているという訳です。著作権の関係もありますので、一部を掲示しておきます。 - 「プロトタイプカーFILE」(CARTOP MOOK 2021)
「童夢-零」と「CASPITA」をかなり詳しく取り上げています。 - 「西山平夫のグランプリ散歩」(Racing on 西山平夫 2009)
サブタイトルが「[老夢へ]40年前の京都ホームレス学生賛江」という童夢創立前の私の悲惨な青春時代をテーマとしたコラムです。超絶悲惨な青春ではありましたが、その割には二十歳過ぎにコルベットやGT-Rを乗り回していましたから、辛かったのか楽しかったのか、自分でも良く解っていません。 - 「童夢の野望」(「Honda Style」 2009)
珍しく、童夢のエコカープロジェクトを取り上げています。一般的に、エコカーと言えばエンジンの改良とかEVとか、動力系に注目が集まりますが、逆に童夢では、動力系には全く手を付けずに、空力と軽量化とサスペンションの改良で、どのくらいの改善が見込めるかを追求する研究を始めていました。その為に、HONDAのINSIGHTを使って実験車を開発しエコカーのレースなどに参加していました。 - 「日本レース界への言づて 林みのる氏引退」(「ベストカー」2012)
引退を決意した頃のインタビュー記事ですが、この時、初めて引退後の気宇壮大な計画についてリークしているものの、思ったほどの反響はありませんでした。事の重大性すら理解してもらえない空しい環境でした。 - 「なかなかいいじゃないか。」(「AS+F」 1996)
今宮 純、川井一仁、赤井邦彦、大串 信のジャーナリストが、「童夢 F105 」について勝手なことを言ってくれています。 - 「キャスピタの素顔に迫る!」(「ROSSO」 藤原よしお 2013)
「CASPITA」についての詳しい解説ですが、藤原よしおのレポートですから上質なレポートになっています。 - 「特集 童夢」(「Racing on」 大串 信 2006)
31ページにわたる大特集だし、その生い立ちから深く掘り下げてくれてはいるのですが、最後の最後で真意の伝わっていない苛立ちを覚えるのも、いつもの大串 信です。そこで、私はこのホームページで、この記事に赤ペンを入れてアップしていますので、興味のある方はご笑覧ください。
「大串 信さんの記事(Racing On)を読みながら、ふとつぶやいたこと」 - 「童夢-もうひとつの日本F1プロジェクト」(「Racing on」 大串 信 2013)
童夢のF1プロジェクトは、周到な準備の上で進められていましたし、かなり完成度の高いプロトタイプまで完成させていましたし、最も入手が困難だったパワーユニットも無限の供給が決まっていましたから、ほぼF1進出には問題が無いところまで来ていました。しかし、その基本コンセプトが「オールジャパンによるF1挑戦」だったのに、急にホンダが「オールジャパンによるF1挑戦」を発表したものだから、一瞬で、存在理由が無くなり、消滅に向かいます。そのホンダは、結局、単なるエンジン供給でお茶を濁すことになるのですから、ホンダの大風呂敷に消されたようなものでした。 - 「童夢 2本のスタートライン」(「ROSSO」 藤原よしお 2013)
鮒子田に社長を移譲してからの童夢のスポーツカーやレーシングカーの開発のニュースを中心に、過去と未来について丁寧に解説されています。 - 「童夢-零」(「ROSSO」 藤原よしお 2013)
この本の付録に付いていた特別付録DVD「ROSSO Dome Zero Movie」の解説です。このホームページの「映画館」で視聴可能です。 - 「童の夢を見続ける男 林ミノル」(「スコラ」 1986)
いわゆるエロ本に近い内容でしたが、れっきとした講談社の出版物でした。若くして亡くなってしまいましたが編集長の高橋克章氏は大親友で、夜な夜な遊びまわっていた悪友でした。一緒に会社を作ったり非常に親しくしていましたから、童夢のレース活動なんかも頻繁に取り上げてもらっていました。 - 「日本自動車レース工業会が発足」(「CG」 大谷達也 2008)
日本自動車レース工業会(JMIA)の発足を詳細にレポートしてくれています。 - 「ルマンは飽きるまでやる」(「AUTO SPORT」 1985)
全く予算の無い中、マシンの開発よりも資金の捻出に四苦八苦していた時代の上っ面の話です。 - 「風と共に疾れ!」(「Racing on」 2003)
「マシン開発に欠かせない風洞とは?」という副題で「風流舎」の取材を中心に、レーシングカーにおける空力開発について(素人向けに)詳しく掘り下げています。 - 「ピンク色のマクランサ」(「Racing on」 2005)
「1968年日本グランプリの伝説」という副題で1968年の日本グランプリに出場したピンク色のマクランサの正体を探りつつ、当時のマクランサを巡るあれやこれやを取材しています。 - 「林ミノル氏 60年代が生んだ超ユニークな個性」(「GENROQ」 1987)
当時、所有していたHONDA S600を横に、カッコ良い写真を撮ってもらいました。 - 「DOME P-2」(「CAR magazine」 藤原よしお 2000)
「童夢 P-2」を中心に、藤原よしお流に深く掘り下げてくれています。 - 「童夢の野望は続く」(「Racing on」 大串 信 2000)
「それは驚くべき規模だった!」から始まる、建設途中の「風流舎」の視察レポート。あまりの規模に私自身もヒビりながらも、後悔もしていないし止める気も無いし、普通の会社の役員なら止めなくてはならない暴走なのに誰も反対しないのが童夢です。 - 「童夢 ヨーロッパへの挑戦状」(「Racing on」 大串 信 2000)
当時、国内のレース環境に辟易していた私は、活路を求めてヨーロッパのマーケットへの進出を考えていましたから、その糸口を探るために、バーミンガムで開催される「オートスポーツ・インターナショナル・レーシングカーショー」に出展しました。 その後、英国に「DOME CARS LTD.,」を設立しますが、やはり、英国の業界の壁は高く、乗り越えられないまま撤収となりました。 - 「2台のホンダ新フォーミュラが走った!」(「Racing on」 大串 信 1998)
ホンダからの発注で開発した「SRS-F」と「ML」のシェイクダウン・テストのレポートです。「SRS-F」は、その後、鈴鹿のフォーミュラ・スクールで活躍している優等生ですが、「ML」は、ホンダからフォーミュラ・ニッポンに供給する目的も有ったものの、輸入車しか採用しないJRPに拒否されてお蔵入りとなってしまいました。 - 「童夢、新たなる旅路」(「GPX」 1996)
「童夢 F105」のシェイクダウン・テストのレポートに加え、技術面での解説と、圧巻は、「GPX」の強引な要求に屈して全部品を床に並べて撮影した展開写真です。 - 「カラス」(「Nostalgic Hero」 大内昭彦 2015)
「カラス」のリニューアルについてのレポートと、私の引退パーティ「童夢の終わりと始まり」の様子をレポートしてくれています。 - 「MACRANSA Panic」(「CAR magazine」 藤原よしお 2006)
「カラス」から始まり「Panic」で終わる私の第一期レーシングカー作りのレポートと、友達のガレージから発見された「Panic」のレストアの完全レポートと、「Panic」のシェイクダウン・テストのレポートですが、レポーターが藤原よしおですからパーフェクトです。 - 「Racing onのグループCカー特集」(「Racing on」 2014/2、2016/5、2019/1)
全て、結構なページを割いてグループCカーを特集しているものの、全般的な傾向として、かなりTOM’Sが開発に関与していたり技術的に介入していたように書かれています。まあ、そこにいちいちと訂正を要求するつもりはありませんが、ここで紹介するのには値しませんので、表紙だけの掲示に止めます。 - 「もの創りの現場 童夢カーボンマジック」(「Motor Fan」 2011)
「童夢カーボンマジック」が業界からも注目されてきたのは、従来はアルミ製だった製品をCFRPに置換する場合などの設計開発力が突出していたからですが、これは、早くからレーシングカーのCFRP部品を開発してきた経験によるもので、まさに、レーシングカーが走る実験室でした。 - 「ムジナがやってる日本のレース」(「F1倶楽部」 林みのる 1997)
当時のJRPの体たらくに怒り心頭の私がストレートに怒りをぶつけていますが、誰も聞いていませんし、一切の反応はありませんし、何も変わらないのが日本の自動車レースです。 - 「トガったプロト(童夢 S102)」(「AUTO SPORT」 2008)
「童夢 S102」を発表した直後の取材ですが、この時点で、既に2009年からトヨタとのルマン挑戦は決まっていましたから、「童夢 S102」は完全な先行実験車でした。取材では「ポールポジションを狙う」とか言っていますが、ドライバーはルマン未経験のトヨタ系ばかりでしたから、もとより、経験がものを言うルマンの予選のポールを狙う布陣ではありませんでした。 - 「これが童夢[風流舎]だ!!」(「AUTO SPORT」 両角岳彦 2000)
技術系に詳しい両角岳彦氏のオープン直前レポート。この頃は「なんか童夢がとんでもないものを作ったらしい」と世間では噂されていました。 - 「失われた時を求めて」(「CAR magazine」 中島秀之 2000)
「童夢 RL81」は1981年のルマンに出場した後、スポンサーのAMADAのホールに展示されていましたが、ルマンから、もうすぐ20年と言う頃に返却されることになり、つまり、レース終了状態のまま室内に保管されていた訳です。
今にも走り出しそうなコンディションでしたから、鈴鹿のクラブ・スプリント(岡 功)でレストアしたのですが、そのレポートと、童夢のルマン挑戦の初期をレポートしてくれています。 - 「トラックの荷台で」(「オートスポーツ ヒストリック」 大串 信 2011)
いつもの大串 信のインタビューですが、かなり正直に事実を語っていると思います。いや、思い出してもしんどくなる悲惨な時代だったのに、なぜか、高揚感はあっても悲壮感は無く、それなりに面白い話も恋バナもあったりしましたが、でも、戻りたくはありません。 - 「童夢-零のすべて」(「モーターファン別冊」 2016)
一冊、まるごと「童夢-零」の特集なので、ここで全てを公開できませんから表紙だけを紹介しておきます。 - 「童夢S102」「童夢NSX-GT仕様」(「Motor Fan Super Car Chronicle」 2010)
「童夢S102」と「童夢NSX-GT仕様」の詳しい解説がメインですが、特にNSX-GTの透視図による系譜の紹介は圧巻です。 - 「林みのる」(「F1倶楽部」 赤井邦彦1994)
日本のレースに憤慨し落胆して、結果、F1を目指すという、この頃のお決まりのストーリーです。 - 「生沢、浮谷が優勝」(「日刊自動車新聞」 1965)
私が初めて作ったレーシングカー「カラス」が、1965年5月30日の第二回クラブマン・スズカ・レースミーティングのGT-1部門で優勝したニュースです。これが底なし沼に片足突っ込んだ記念日となりましたが、完成までの苦労が尋常では無かったので、「カラス」がチェッカーを受けた時は、喜びよりも、立っていられないほど疲れ果てていたのを覚えています。 - 「歴史の証人 PART1」「歴史の証人 PART3」(「ベストカー」 佐藤篤司 2014)
PART1は、私の青春時代の話です。PART3は、鮒子田や舘とのかかわりを語っています。 - 「童夢のすべて」(「driver DELUXE」 1979)
すべてですから、全編、童夢ですが、まだ、P-2が出来た頃の創成期ですから内容は薄く、半分は童夢のモデルカーとラジコンの話題です。 - 「素顔の技術者 林みのる 1〜4」
4回に亘って掲載されていますから、そこそこ情報量はありますが、取材と言うよりはどんちゃんと吞んでいた印象が強いので、かなりの部分は、他誌のコピペか印象による創作ではないかと思っています。 - 「F1 童夢の挑戦(漫画 全3話)」(「少年サンデー」 中平正彦 根岸康雄 1997)
ルマン挑戦からフォーミュラへの方向転換からF1を目指すまでを描いていますが、もちろん、トヨタに外されてルマンを去らざるを得なかった事情や、ホンダの全日本の体制でF1に参戦するという大風呂敷のおかげでF1計画がとん挫した事情は語られていません。このあたりの実態は私の著書「童夢から」で詳しく述べています。 - 「F1GP NIPPONの挑戦」(「AS+F」 1995)
副題に「世界初の試み! 書店で買えるF1企画書」とあるように、一冊、丸ごと童夢のF1挑戦がメインテーマとなっており、加えて、林みのるストーリーや童夢の歴史などが語られています。内容量が多いので表紙のみ紹介しておきます。 - 「ジオット キャスピタ 未知への挑戦!」(「ベストカー」 徳大寺有恒 中谷明彦 1994)
「CASPITA」の2号車は英国でナンバーを取得して、ヨーロッパでかなりのロングラン・テストをこなしています。その後、日本に持ち帰り日本のナンバーを取得していましたから公道を走れます。そこで、徳大寺、中谷の両氏がドライバーとして、一般道から矢田部のテストコースまでロード・インプレッションを行いました。 - 「藍より青いか!?」(「週刊プレイボーイ」 1996)
童夢のF1挑戦を一般紙的な視点からレポートしてくれていますが、掘り下げる程のページ数は無いものの方向性は核心を突いているという感じの記事です。 - 「F1マシン開発ゲーム 童夢の野望」「F1倶楽部」 大串 信 1997)
ある時、F1のドライビング・ゲームを作りたいのでテストデータを出してほしいというゲーム・メーカーが飛び込んできましたが、その頃、私は、なかなか現れない天才レーシングカー・デザイナーにしびれを切らして、レーシングカー・デザイナー育成ゲームの開発を計画していましたから、そのゲーム・メーカーを巻き込んで「童夢の野望」を作ることになりました。 しかし、私の考えていたシナリオでは通常のゲームの数十倍のメモリーが必要で不可能と言われ、削りに削っているうちに求めていた内容とはかけ離れた単なるゲームになってしまいました。 - 「これが[太陽GP]だ」(「スコラ」 1988)
あまり知られていませんが、童夢は何台かソーラー・レーシングカーを開発していますし、何回か「ワールド・ソーラー・チャレンジ」に参戦しています。この時のドライバーは、スコラの高橋編集長の紹介で知り合った夏木陽介氏でした。 - 「YOSHIKI参戦」(「サンケイスポーツ」 2009)
いわば飲み友達の関係だったYOSHIKI氏ですが、彼は知り合う以前から自動車レースに興味があり、以前、X JAPANがF3000チームのスポンサーをしていた事があります。たまたま、スポンサー獲得の権利が童夢からホンダに移行した時に次年度のスポンサーが決まっていない状況があり、ある酒席でYOSHIKI氏が「GTやりたいな」と言った事をホンダに伝えた結果、瞬間的にタイアップが決定しました。だから、正確にはホンダとYOSHIKI氏との契約です。 - 「日本初・日本発の戴冠車」(「Racing on」 大内明彦 2012)
1994年に、F3000シリーズ・チャンピオンを獲得した「童夢 F104」のサクセス・ストーリーです。1987年からDUNLOPのワークスチームとしてフォーミュラ・レースに参戦しますが、タイヤの開発を担当するチームとして他のユーザー・チームと同じシャシーでなくてはならないという立場から足踏みを余儀なくされていた期間はありますが、実際には当初から開発は続けられていましたし、1991年に「童夢 F102」をデビューさせ、1994年に「童夢 F104」でシリーズ・チャンピオンを獲得します。 - 「童夢オーシャンフライという形」(「KAZI」 高橋唯美 2010)
もともとは、自分が沖縄に行くときに持っていきたかっただけですが、開発している間に入れ込んでしまい、かなりの開発費を投入してしまっていたので、途中から市販を目的としているような雰囲気になっていましたが、いつもの通り挫折しています。 ボート、釣り関係で以前から親しくしていたマリン・イラストレーターの高橋唯美氏は私のお気に入りで、童夢の会社案内の社屋の展開図やGTのトランスポーターのグラフィックなどをお願いしていました。その高橋氏が取材に来るとの事でしたが、かなりの巨体なので沈没しないかと心配していたものの、何とか浮いていました。 - 「ECOL DOME SUPER INSIGHT」(「ザッカ―」 2009)
童夢のエコカープロジェクトを取り上げています。童夢では、動力系には全く手を付けずに、空力と軽量化とサスペンションの改良で、どのくらいの改善が見込めるかを追求する研究を始めていました。その為に、HONDAのINSIGHTを使って実験車を開発しエコカーのレースなどに参加していました。 - 「京都 私のお気に入り」(「SANKEI EXPRESS」 井上雅雄 2007)
(童夢の取引先の多くは関東方面でしたし、出張も多く、特に東京には住まいを設けて半分くらいは滞在していましたから、最初の宝ヶ池の本社から大原に移転する時も関東進出説が囁かれていましたし、米原に風洞を建設する時も、クライアントの自動車メーカーの利便性の良い関東方面説が出ていましたが、私が、全く京都を離れる気が無かったので無視されています。どこが良いのか解りませんが、「家」ですね。