終戦直前、家族が、わざわざ何の被害も無かった京都から広島に疎開した時に生まれ、生後1ヶ月で原爆の閃光を浴びたために慌てて京都に逃げ帰った、ぎりぎり戦中派、ぎりぎり被爆者。
幼少の頃から物造りが大好きで、模型、ラジコン、オーディオ、バイクを経て、16歳からは車に没頭。眺めたり運転したりという趣味ではなく、車を造ることだけにしか興味がありませんでしたが、何から手を付けて良いかも分からないまま、レーサーを目指す同級生の鮒子田と鈴鹿サーキットに通うようになります。
父親は画家でしたから基本的には跡を継がせたかったようで画材だけは何でも買ってくれましたが、八百屋ならともかく、歌手や画家を継げと言われても、それは才能が決めることであり出来ない相談でした。
カラス(1965) 19歳の時に作った最初の改造レーシングカー
19歳の春、通い詰めていた鈴鹿サーキットで知り合った浮谷東次郎の依頼で HONDA S600を改造したレーシングカーを製作することになり、デビューレースで優勝したことをきっかけにスポンサーのような人が現れて次作への道が開けます。そこから「MACRANSA」というというレーシングカー・コンストラクターのはしりのようなチームを作り「くさび」「PANIC」と製作しますが、土台、収入のあても無い浪費一方の趣味のようなものでしたから、年々、高騰する開発費に押しつぶされて、26歳になったころにギブアップします。
MACRANSA(1966) HONDA S600をベースに作ったレーシングカー
しかし、それまでも全く収入が無かった訳では無く、レーシングカーの開発資金を調達するために、いくつかの小さなビジネスを立ち上げていましたが、レーシングカー作りを止めた途端、出ていく金が無くなり経済的に余裕ができてきました。それまでのストイックな生活から解放された上、お金に余裕が出てきた訳ですから、26歳の私は手の平を返すように放蕩の世界にのめり込み、それから2年間も遊び呆けていたでしょうか、すっかりと夜の京都では有名人になっていました。
しかし、そんな生活は飽きるのも早く、1年を過ぎた頃から、頭の中は車造りで一杯になっていましたが、もう二度と、あの頃の金の苦労はしたくなかったので抑えに抑えていたものの、やはり抗しきれず、30歳を目前にした1975年の初旬に、またもや、資金も開発施設もスタッフも何もかも無いままにスポーツカー・メーカーを目指して「童夢」の創立に走り出します。
その頃、アルミ・ホイールが大ヒットして業績好調だった従兄の林将一が経営する「ハヤシ・レーシング」を母体として「童夢」がスタートし、東大阪の「ハヤシ・レーシング」の工場で「童夢-零」の製作がスタートします。
1978年の第48回ジュネーブ国際自動車ショーで発表したところ、大変に大きな反響があり、また、折からのラジコンブームでおもちゃが大ヒットし多額のロイヤリティが転がり込んできました。
童夢-零(1978) 童夢としての最初の作品
当時発売されたおもちゃ類
そのロイヤリティで京都に童夢の工場を建設した頃、やや経営に陰りが見えてきた「ハヤシ・レーシング」の立て直しに入ってきた元銀行の支店長が不採算部門の切り離しにかかり、最もお荷物になると思われた童夢が真っ先に切られましたが、童夢も童夢-零も捨てる気の無かった私は、父のつてで銀行から大借金をして童夢の工場を買い取り、私が代表者となる「株式会社 童夢」を設立します。
宝ヶ池童夢本社屋 大ヒットとなったおもちゃのロイヤリティで建設
そんな頃、童夢のラジコンで儲けていたおもちゃ屋さんが、もう一車種ほしいから「前金を渡すから童夢-零のレーシングカーを作ってほしい」と言ってきました。つまり、ラジコンの為に本物のレーシングカーを作るという本末転倒な話でしたが、咄嗟に私は「童夢-零のレーシングカーではインパクトが無い。ルマンに挑戦しましょう」と言い、おもちゃ屋さんも「それは凄いですね!」ということになり、ルマンを目指すことになります。
レーシングカーを造り続けて行き詰ったからスポーツカー・メーカーを目指したはずが、前金をちらつかされた途端に元の木阿弥となり、直ちに「ルマン24時間レース」への挑戦を開始します。
DOME ZERO-RL
DOME RC83
TOYOTA DOME 86C
それから連続8年間、ルマンへの挑戦が続くことになりますが、しかし、いくら世界最高峰のスポーツカー・レースに挑戦を続けても、日本では、レーシングカー・コンストラクターという仕事に対するニーズに乏しく、私が夢に見ていたレーシングカー・コンストラクターとしての自立は難しかったものの、小規模な技術集団が、ジュネーブ・ショーで脚光を浴びたり、ルマンと言う世界の舞台で活躍したりするのを見て、興味を持った自動車メーカーから、モーターショー・モデルや試作車などの試作やデザインや開発などの業務が舞い込むようになり、それらの仕事で稼いだ金をルマンにつぎ込むという変則的な形ながら、何とか、レーシングカーの開発を継続していました。
1985年頃には、それらの受託業務はピークを迎え、それまでの214坪の宝ヶ池の工場では対応が不可能になっていましたから、1987年、1600坪の大原に移転します。
童夢京都大原社屋(1988) 215坪から1600坪に
そうしてルマンに挑戦を続けていると、世界のレース界では、空力とカーボン・コンポジット技術が開発の中心となりつつある事が分かってきますが、その頃はもう、ほぼすべてのレーシングカー・コンストラクターが消滅していたわが国では、そんな技術にも設備にも関心を示す人も自動車メーカーもありませんでしたから成す術がありませんでした。しかし、ここを乗り遅れたら世界のレベルには付いていけませんから、仕方なく、童夢で設計して社内に25%ムービングベルト風洞を自作したり、カーボン・コンポジットの基礎研究から開始したり、世界標準に合わせるべく孤高なる努力を続けました。
しかも最初から、金を払って欧米の技術を導入するつもりは無かったので、まあ、予算的に難しかったのも事実ですが、両方とも基礎部分からの独自開発にこだわり続けた結果、風洞に関してはムービングベルト装置や計測装置の販売を事業化するに至っていますし、カーボン・コンポジットに関しては先進の開発技術を会得して事業化に成功しています。
25%ムービングベルト風洞
販売している童夢製風洞装置
そして2001年には米原に50%ムービングベルト風洞「風流舎」を建設し、カーボン・コンポジット製品の開発/製造専門子会社「童夢カーボン・マジック」を創立、2006年には、童夢の全機能を米原に集約して、「DOME RACING VILLAGE」を建設します。
50%ムービングベルト風洞 風流舎(2001)
DOME RACING VILLAGE 1600坪から1万坪に
レース活動においては、1982年の「童夢 TOM’S セリカC」の開発をきっかけにトヨタのグループCカーの開発とレース活動を担当する事になり、1985~6年はTEAM TOYOTAとしてルマンにも挑戦しました。
1987年からはフォーミュラ・レースに転じ、1994年には日本車としては初めてF3000のシリーズ・チャンピオンを獲得し、1996年にはF1プロトタイプ「童夢F105」を完成させました。同時期、JTCCに参戦していたホンダから新型アコードのJTCC仕様車の開発とレース活動の依頼があり、ホンダワークスとして参戦開始。2年連続でチャンピオンを獲得したために他メーカーの腰が引けてレース自体が消滅してしまった為に、ホンダはレースの主軸をJGTCに変えます。継続してホンダのGTレース用レーシングカーの開発やレース活動を受託し、それは2014年まで続きます。
ルマンには、2001年に「童夢S101」を開発して復帰して以来、2015年に「STRAKKA DOME S103」の設計を担当するまで続き、計18回の参戦を果たしていますが、私の引退で全ての幕を閉じました。
2015年に私は引退しますが、その時に開催した「童夢の終わりと始まり」というパーティのお土産に制作した「童夢の奇跡」という本を見ると、いつの間にこんなにたくさんのレーシングカーを作ったんだろう、いつの間にこんなにたくさんのレースに出たんだろうと、何か、他人の人生を見ているような不思議な気持ちになります。
多分、皆様には解っていただけないでしょうが、レーシングカーを輸入に頼る我が国では、レーシングカーを造るというニーズが無いので、レーシングカーを造る前にレーシングカーを必要とする状況から作り出さないと一歩も進みませんから、はやる気持ちを抑えながら、水飴のプールで泳ぐようなまだるっこしい努力が必要でした。
そんな、やりたい事の1/100も出来ていないはずの私の人生を振り返ると、その作品数は不思議としか言いようがありませんし、童夢のマシンは18回もルマンの地を踏んでいますから、もう一回、19歳からやり直せと言われても同じことが出来る気がしません。
全く満足していないのに、これ以上の事が出来たとは思えないという、中途半端な満足感と諦めが混ざったような気持で私は引退を決意しますが、そんな納得のいかない人生の最後に、私は、強引な方法で自己満足を創出するシナリオを描いていましたし、予定通りに進めば、私の人生の最後に大輪の花が咲くはずでした。
この計画は「童夢と林みのるの最後の夢」と称して着々と進められていましたが、同時進行していた当時の妻との離婚話をきっかけに、想像を絶する事件が勃発して計画が頓挫してしまいます。この事件の内容を語りだすと長くなりますので、詳細は15 Apr. 2023「ブラジャーVSレーシングカー 2 -digest-」 を参照してください。
また、その気宇壮大な計画に関しては10 Aug. 2022「童夢と林みのるの最後の夢」 を参照してください。
このように、大輪の花を咲かせるどころか立ち枯れてしまったような悲惨な老後を迎える事になってしまいましたが、夢も資産も失った私は、その後、童夢を友人に譲渡し、現在は、売却資金の管理会社である「童夢ホールディングス」のオーナーとなって、一応、食うには困らない生活を営んでいますが、その後、再婚した妻が、私の反対を押し切って子供を作ってしまったので、現在(2022年)、喜寿の私に4歳と2歳の子供がいて、育児に追われるという異常な老後となっています。立ち枯れた老木の枝にロープを結んでブランコを作り、子供たちが無心に漕いでいますが、子供たちが落ちないように枯れた枝は必死に頑張っています。
林みのる
[童夢と林みのる] by 山口正己
私や童夢について、ざっくりと紹介しましたが、加えて、モーター・ジャーナリストの山口正己氏が、私の書いた「ブラジャーVSレーシングカー」で童夢と私を紹介する記事を書いてくれていますので紹介しておきます。
この記事のテーマは、自動車業界を良く知らない人に「童夢」や「林みのる」を説明することにあるらしいが、私は業界の人間であり、「童夢」も「林みのる」も業界で誰でも知っている存在だ。そもそも今まで、そういう視点から林みのるという人を見たことがなく、どこから紹介すれば良いのか戸惑うが、私の認識している林みのるという人は、大方こんな人物だ。
まず、幼少期の実家に運転手やお手伝いさんが居たという。第二次世界大戦直後のことである。ここからして私のようなただの庶民ではない。さらに、ご幼少の頃から只者ではない存在だったことは幼稚園に入園した日に早くも証明された。自分の言う事を聞かないばかりか、命令ばかりする先生に腹を立て、とてつもない事件(支柱が腐って倒れかけの幼稚園の塀を支えていた棒を外して回って倒してしまったらしい)を起こして即時退園になった伝説があるらしい。本人は覚えていないようだが、手伝わせた二軒隣の親友の親から接近禁止命令が出て、それ以来、会えなくなったし、生前のご母堂が、ことあるごとに愚痴をこぼしていたようだから本当だろう。
それはさておき、物作り大好き少年だった林みのるは、模型やラジコンやオーディオやバイクを経て、19歳の時に最初のレーシングカーを作って鈴鹿のレースで優勝(1965年)したのを契機にレーシングカー・コンストラクターの道を歩み始め、30歳で「童夢」を創業(1975年)した。童の夢(わらべのゆめ)、なんとも林らしいネーミングだ。
1965年と言えば家に車があることが裕福な証の時代だったから、新車を潰してレーシングカーを作るなど夢のまた夢、非現実的な妄想だった。さらに、画家であった父や厳格な母の猛反対を受けていたから、一切の支援の無いなかでのことである。
そんな状況で、情熱と根性とエネルギーだけでホンダS600を改造して真っ黒に塗装されたことから“カラス”と呼ばれる最初の作品を作ってしまった。林みのる19歳の時である。この経緯を詳細に語るにはページが足りない。興味ある方は、林の青春を振り返る幻冬舎出版の「童夢へ(林みのる著)」をお読みいただきたい。(本ホームページで閲覧可能)
ともあれ、激動の青春期を乗り越えて30歳を目前とした1975年2月、林はレーシングカー・コンストラクターの「童夢」を創業した。その最初の作品であるスーパーカー「童夢-零」をジュネーブ国際自動車ショーで発表し、いちやく世界的に脚光を浴びる事になった。一世を風靡した「童夢-零」のラジコンを覚えている団塊の世代のおじさんも多いだろう。
それだけでは飽き足らず、世界三大レースの一つであるルマン24時間レースに挑戦を開始、以後通算18回の参戦を果たし、1985年からは、ルマンに挑戦するTOYOTAのワークス・レーシングカーの開発とレース活動を担当、1997年からは、HONDAのワークス・レーシングカーの開発とレース活動を担当するなど、日本で唯一の本格的なレーシングカー・コンストラクターとして活躍してきた。
ざっと振り返ると簡単な話のようだが、日本には「童夢」以外に本格的なレーシングカーを開発できる企業は存在していなかった。多くのメーカーが海外のコンストラクターに依存して日本のコンストラクターを育てなかったことから、日本ではレーシングカー・コンストラクターという事業形態が成立せず、他のライバルたちが撤退せざるをえない結果だった。レーシングカー・コンストラクターを維持させるだけでも難しい日本の自動車レース業界の中で、目覚ましい成長を実現していた童夢は誰言うともなく「童夢の奇跡」と呼ばれるようになった。
その、創業から現在までのサクセス・ストーリーも、ここでは語りつくせないので、自動車業界を良く知らない人にも興味を持っていただけるような話題を探してみた。
一言でいえば林は、自動車レース業界では浮いた存在だった。自動車レースは、見た目ほど儲かる世界では無かったから質実な人が多い中、京都の花街で浮名を流したり、銀座の有名クラブで顔だったり、現在、結婚が4回目だったり、とにかく、自動車レース界はいうに及ばず、一般人の規格からも外れていた。
事業面でも、頼みごとや頭を下げるのが大嫌いだったから童夢には営業部門が存在しなかったし、頼まれた仕事しか引き受けないというスタイルを貫き通していたのだ。
なぜ、そんな事が可能だったのかと言えば、林には、独特の先見の明というか嗅覚があったからだ。1980年代に、いち早くカーボン・ファイバーに着目、大手繊維メーカーと組んでレーシングカーの車体への製品化を推進した。1987年には自動車メーカーでさえ所有するところが少なかった25%ムービングベルト風洞実験設備を独自に建設。2000年には、さらに進化させて東洋唯一の50%ムービングベルト風洞実験設備を独自に建設した。何から何まで、日本の自動車メーカーの一歩先を行く先進技術を導入し、後追いの自動車メーカーをクライアントとして成長拡大を続けてきたのだ。
私は林みのるとは付き合いが長いものの、とても同じ視点でものを見ているとは思えないので解った風なことを言う気はないが、これらの猪突猛進のような生き様に計算があるとは思えない。ひたすら大好きなレーシングカーを作るためにはどうすれば良いかだけを考え抜いてきた結果が、ぶれない一直線の生き様となってまっすぐにゴールに向かわせたように見える。
また、林みのるの忘れてはならない特徴は、絶えず日本の自動車レース界を俯瞰して観察していたマクロな視点だ。ここ20年ほどに亘っての林みのるの発信する意見は様々な雑誌の特集やコラム等で発表されており、今でも、自身のホームページである「林みのるの穿った見方」に多くの意見が掲載されているが、よく観察すると、利己的な言い分は一言も見当たらない。
ただし、それは意見としては的を射ているものの、もともと次元が違う視点で意見を発信しているので、往々にして誤解されることが多いのだが、よく観察すると、林の発する言葉は物事の真理を突いていて、我田引水な発想がまったく介在していないことが解る。
林の意見は、一貫して、日本のレース界や自動車メーカーが海外に技術を頼ることを批判し、国内の技術力と産業の育成を蔑ろにしたら日本の自動車レースの発展振興はおぼつかないと警告を発信し続けている。
それは、口先だけではなく、事業で得た利益のほとんどを自己資金で賄うルマン24時間レースに投じたり、日本の自動車レースで使うレーシングカーの開発に投じてレース界に提供するなど、一途に、日本の自動車レース産業の発展と技術力の向上に公私の境なく尽力してきたことでも証明されている。
しかし、そうしたことを誰も普通はやらないので、林の行ないは理解されにくく、林が提唱するレーシングカーの国産化に対しても、日本の自動車レース界からは「自分の所だけ儲けるためだ」と思われて反発を受けることが多かった。
結果、日本のレース界は、今でも、最高峰と謳われるスーパー・フォーミュラがイタリア製なのを始め、レーシングカーを輸入に頼らざるを得ない状況が続いており、海外に頼り続ければ日本の開発技術が置き去りにされて疲弊するのは理の当然だし、自動車メーカーさえも、ルマンやF1等に参戦する場合は外国の企業に丸投げせざるを得ない状況が続いている。
こうした中、失意のうちに引退を決意した林みのるは、その集大成とも言える童夢も子会社の童夢カーボン・マジックも風洞設備も大企業が譲渡を申し出ていた状況下、無借金経営を達成していたので、売却してすべてが林みのる個人の懐に入って豊かな老後を満喫するのかと思われていたが、そうはならなかった。林は、その売却益の総てを投じて、アジアをネットワークとするスポーツカーとレーシングカーの一大開発システムを構築しようとしていたのだ。
この話を聞いた時は、さすがに私も理解が及ばなかった。何故かといえば、資産を総て投入する割に、林みのるは引退を前提としており、そこに「林みのる」も「主語」も存在しない計画だったからだ。
自動車の開発環境にとっては夢のある事業に見えたが、ビジネスとしては、いかにもあいまいだった。
林みのるとの長年のつきあいから想像するに、「私」や「主語」は林の頭になく、今まで言い続けていた国内レース産業の発展振興が果たせなかったため、東南アジアまで枠を広げての大博打を仕掛けたのではないかと拝察したし、その裏には、この事業構造が動きだせは必ず触手を伸ばしてくる企業があるという自信が伺えた。あえて理屈を付ければそうとも言えるが、やはり、林みのるとしては、後先考えずに、自分にとって相応しい華々しい幕の引き方だけを頭に描いて悦に入っていたのではないかとも思っている。
その生き様は、しごく一直線でシンプルに見えながら、緻密な計算が成されているようにも見えるし、総てを日本の自動車レースの発展にささげてきたようにも思えるが、ひたすらレーシングカーを作りたいという利己的な欲望に向けて突っ走っていただけのようにも見える。どちらにしても、一般的な尺度では測り知れない想定外な人物、それが林みのるだ。
そんな、いかにも林みのるらしい人生の最後に大輪の花を咲かせようとする気宇壮大なプロジェクトである「童夢と林の最後の夢」は、莫大な予算を捻出するために童夢関連の会社や設備を東レやトヨタに売却したことに乗じて、同時期に離婚に向かっていた元嫁氏の奇想天外な策略によって多くの売却益を奪われて破綻してしまう。
奇想天外すぎて簡単には説明できないが、本ホームページ15 Apr. 2023「ブラジャーVSレーシングカー 2 -digest-」 に概要が書かれているので参照していただきたい。
それにしても、この「童夢と林の最後の夢」が実現すれば、アジア一帯をネットワークするレーシングカーやスポーツカーの開発生産システムが確立されただろうし、何よりも、既に林みのるはシンボルとしてのスーパー・スポーツカーの開発を進めていたから、たぶん、世界中が「あっ」と驚くようなスポーツカーが誕生していたはずだ。見たくなかったか? 乗ってみたくなかったか? それが、最後の幕に手をかけた途端に元嫁氏の反乱という予期せぬ出来事によって頓挫してしまったと聞くにいたって、日本の自動車レース業界の失った希望というか損失の大きさに愕然としている。「童夢と林の最後の夢」については10 Aug. 2022「童夢と林みのるの最後の夢」 に概要を説明しているので参照していただきたい。
モーター・ジャーナリスト 山口正己