「童夢から」の執筆とホームページのリニューアルの為に古い資料を調べていると、あんなこともあった、こんなこともあった、とついつい思い出に浸ってしまいますが、そんな中から、飾るほどでもないが捨てるのは惜しいというような、JUNK BOXの古いパーツのような話題を拾い集めたコーナーです。
エピソード
- 「東日本大震災に3000万円の寄付」(「ベストカー」 2011)
2011年3月11日、和歌山に釣りに向かう途中にラジオからニュースが入ってきましたが、あまり気にしないまま和歌山に到着し、夜のテレビのニュースで悲惨な状況を知りました。とって返して、いろいろ支援を考えましたが、知り合いの国会議員に頼まれて、とりあえず、自民党を通して寄付する事にしました。それを私は公表しましたが、途端に、はしたないとか売名行為だとかのバッシングが始まります。また、童夢が寄付したことを報じたのは、このベストカーの小さな囲みのみで、こんなことをしていたら、まるで悪い事をしているようにこそこそとしなくてはならなくなるし、誰も寄付などしなくなるでしょう。
私は、このような寄付行為は新聞の一面広告で寄付者の氏名と金額を公表して称えるべきだと思っています。 - 「著書[童夢へ]の書評」(「フジサンケイビジネス他3誌」 2009)
童夢設立までの子供の頃から青春期までを自伝的に書き下ろし「幻冬舎」より出版しました。当時、飲み屋で知り合っていた見城さんに自費出版の相談をしたら「出してあげるよ」と言われてお願いしました。多分、そんなに売れていないと思います。 - 「いくつかの広告やカレンダーに出ています」
フォトジェニックなところが買われたのでしょうか、「AMEX」「BOSE」の広告や「MOTUL」のカレンダーに出ています。もっとも、BOSE とMOTULは非常に親しい関係でしたから馴れ合いのようなものですが、「AMEX」は正式に広告代理店を通してオファーがありましたしギャラももらっていますから、れっきとしたCMスターです。全て誤解ですが。 - 「私の力作 ルマン・ガイドブック (1985)」―トヨタ用―
1985年、舘と私の夢がかなってトヨタのバックアップによるルマン挑戦が始まりますが、トヨタからは経験を買われて全ての手配を任されていたので、入れ込んだ私は、事前に2回もフランスに行って、写真による空港からルマンまでの道案内から、電車での切符の買い方から、レンタカーのローテーションまで、完ぺきなガイドブックを作成しました。 ところが、あまりに完ぺきだったために童夢は必要なくなり、1986年でお払い箱になってしまいます。
「24HEURES DU MANS 1985 TEAM DOME&TOM’S POWERD BY TOYOTA TOUR GUIDE BOOK」
メンバーの名前なども含まれていますが、別に悪い事をしにいった訳でも無いので実名表記しておきます。ただし、舘と私の奥さんはメンバーチェンジしていますので伏せておきます。 - 「未完成のままの童夢の車いす」―未完成―
童夢の開発したFD-99のレースで脊髄を損傷して障害を負ってしまった長屋宏和君の為にレーシングな車いすを開発しようと頑張っていたのですが、あまりに特殊な機構を狙ったものだから開発が進まず、その内に私がリタイアしてしまったのでお蔵入りとなってしまったプロジェクトです。童夢では、とかくレーシングカー以外の開発には時間がかかります。 - 「これは林みのるのおもちゃです!」 ―チューニングカー企画―
もともとDAIHATSUは、フェローバギィとかデトマソ・ターボとかコンパーノ・スパイダーとかダイハツ・スポーツとか色気のある車を作ってきましたし、P-3とかP-5等、レースにも熱心な会社でしたが、ある時期から、商業的成功だけが重視されるような傾向が強くなり、一部の社員からは「こんなのDAIHATSUでは無い」というような不満が漏れ聞こえてくることが多くなっていました。
そんな頃、DAIHATSUのいろいろなセクションから様々な企画が持ち込まれて、童夢としても熱心に対応していましたが、その中でも、ディーラーの一部に「DAIHATSU SPEED SHOP」を開設して専用のチューニングを行うという提案と、一部の車種を童夢でチューニングカーに仕立ててディーラーで販売するという提案は、かなり前向きに検討されていました。
この「童夢OR・02」のパンフレットのラフは、発売した時の広告のサンプルとして企画書に添付したものです。全て実現には至りませんでしたが、そういうDAIHATSUスピリットは受け継がれ、その後の「X-021」の市販計画から「コペン」の発売まで繋がっていったのだと思います。
パンフレット/広告
- 「DOME CAR ACCESSORY CATALOG(1979)」―カー・アクセサリー―
「童夢-零」を発表したものの、さて、これからどうやって食っていこうかと思案している頃に、カーショップを経営している友人からの依頼で「童夢-零」の部品を商品化して販売する事になりました。デザインが奇抜で売れないという事だったので、一般受けを狙った商品も開発しましたが、それも売れず撤収。カタログの絵は透視図で有名な猪本義弘さんの作品。 - 「DOME UNDER COWLING」―エアロパーツ―
レース界に、エアロパーツで儲けている人が多かった時代、チンスポでは能が無いので、実際に効果の実感できるエアロパーツを開発しようと風洞実験を繰り返して完成した超高性能パーツです。矢田部のテストコースなどで実測データを収集しながら開発した結果、最高速が13.8Km/h向上し、フロントが24.3Kgのリフトだったダウンフォース(DF)が32KgのDFを発生し、前後で91.8KgのDFが増えていました。また、高速道路での100Km/h平均での燃費は7.8%向上するという驚異的な改善が確認されましたが、コストが高すぎて全く売れませんでした。
唯一買ってくれたのがトヨタ自動車で、数か月後に連絡があり「テストコースで試験を行いましたが、御社のカタログの数値と完全に一致したので驚いています。敬意を表します」とおほめに預かったものの、追加注文はありませんでした。 - 「Ocean Fry」(2010)
南の島とボートと釣りが好きでしたが、ビーチ・フロントのリゾートホテル等に宿泊していると、ここに自分のボートがあったら楽しいだろうなと思っていたので、宅配で送れることを前提とした折り畳み式のボートを開発しましたが、かなり上出来だったので市販を検討し、沖縄でカタログ撮影もしたものの、原価の事を考えていなかったので飛んでも無い価格になってしまい、あえなくお蔵入りとなりました。
詳しくは、マリン・イラストレーターの高橋唯美さんが「KAZI」で試乗レポートを発表してくれているので、見てください。「童夢オーシャンフライという形」(「KAZI」 高橋唯美 2010) - 「BOSE CAR STEREO」
「スコラ」の高橋編集長は悪友でしたが、友達には真面な人も多く、そんな一人が「BOSE(日本)」の社長だった佐倉住嘉さんです。以来、ルマンのスポンサーにもなっていただきましたし、展示用のスピーカーを頂いたり、大変にお世話になっていました。ある時、BOSEのカーステレオを国内で販売する事になったものの全く業界のことが解らないので童夢で引き受けてくれと頼まれましたが、私にとってもカーオーディオは未知の世界だったので「無理」と断っていました。
しかし、熱心に頼まれて、結局、引き受けることになったのですが、よく聞くと、日本語の取説も無ければ日本車に適合させるアクセサリーも無く、標準品では日本車のドアへの取り付けは無理なことが分かりました。えらい事を引き受けてしまったものですが、日本語のカタログとパンフレットと取り付けのガイドブックを作成し、いろんな車を調べて専用の取り付け用部品を開発し、日本車に取り付けるためのドア・スピーカー用のフレームとリアシートの後ろに乗せるエンクロージャーをデザインするなど万全の準備を整えて、それでも童夢での販売は考えられなかったので、販売に関しては「AUTOBACS」に丸投げしました。
えらく苦労した割には、価格が高すぎて全く売れませんでしたが、私は、その迫力のサウンドに惚れ込んでいましたから、当時の愛車の全てに装備して、いつも大音量で陶酔していたおかげで、歳を食ってから難聴で困っています。 - 「知られざる童夢車 COMET(1981)」
当時、トミタオートの富田からチューニング・パーツの開発やチューニングカーの市販など、いろいろな相談をされていましたが、その頃のレーシングカーだけに魅せられていた私にとっては、あまり興味の無い話ばかりでしたから、結局、開発に関与する事はありませんでした。COMETは、それでも熱心に説得に来ていた富田と、当時、童夢に在籍していた三村健治が意気投合して開発に乗り出したので私はほとんど関与していません。その後も、富田からはアフターマーケット用のターボ(turbo疾風)の開発を頼まれて誰かが手伝っていたようですが、富田は、発売前になると私の所にやってきて、パンフレットと広告と取説の制作を頼みに来ます。まあ、結局は手伝う事になるのですが、COMETも私がプロデュースしています。
モデルの女性は、1979年のルマン初挑戦の時に、東芝EMIの新田さんが「TINNA」の「童夢」というレコードを出してくれた縁で紹介されたデビュー予定の歌手でしたが、それからメキメキと頭角を現していきました。 - 「English company brochure(1989)」
- 「company brochure(日本語 English 2006)」
- 「鶴田憲次画伯の風流舎」(2000)
私は、鶴田画伯とは友達でしたしファンでもありましたから、少し事情があるものの鶴田画伯の作品を約80点所蔵していましたし、米原の全ての建物に展示していました。応接室はもちろん社員食堂もロビーも、工場の廊下まで展示していましたから、さながら鶴田憲治ミユージアムの様相を呈していました。鶴田画伯は美大の教授でもありましたから、時々、生徒を連れてきて作品を鑑賞させたりしていました。
話は少し遡りますが、2000年に立ち上がったばかりの風流舎を見に来てくれた鶴田画伯が、なんと、竣工記念にと風流舎を描いてくれました。喜んだ私は、さっそく制作中のパンフレットの表紙に使いました。
「はやぶさのシート」も「ゴルフクラブ」も童夢製
釣り具のリールのハンドルやテーマパークのジェットコースターや医療器具や宇宙、防衛関係まで、意外にたくさんの童夢製品が世の中に出回っていますが、この種の開発や生産はほとんどのケースにおいて機密保持契約があり童夢の関与は伏せられています。しかし、ときどき童夢で開発したという事をアピールしたいという企業もあり、わずかですが、パンフレットに童夢の名前が掲載されているケースもあります。そんな中から、面白そうな数点をご紹介しておきます。
- 東北新幹線「はやぶさ」のCFRPシート(2011)
車両の軽量化を目的に童夢が開発を担当しています。当初からレーシングカー開発における軽量化技術の応用はセールスポイントになっていたようです。 - 「DUNLOP GOLF CLUB」(2011)
基本的に私がゴルフクラブの開発に全く適していないのは周知の事実ですから、土台、コンセプトが間違っていますが、断り切れない事情もあり「空力を極めたゴルフクラブの開発」を引き受けることになりました。かなり高度で科学的な実験を繰り返し、空力以外の性能向上には貢献したものの、肝心の空力の影響は無きに等しい事が解りましたが、製品は発売され、予想通り売れませんでした。 - 「999.9」のCFRPメガネフレーム(2011)
カーボンのメガネフレームの場合、板状に成形する製法が安く作れるのですが、999.9様からの注文は、最も作りにくい完全モノコック構造でしたから、当初、我々は価格的に成立しないだろうと思っていましたし、定価が367,500円と聞くと絶対に売れないだろうと思っていましたが、250本の限定品は即日完売との事。解らない世界です。 - 松本惠二に頼まれた「SAUCER」のデザイン(1983)
当時、松本惠二はカーショップ「Meiju」を経営していましたが、主力商品がTシャツやステッカーやタオルなどのキャラクター・グッズが中心だったので、荒稼ぎを企んだ惠二は、その頃、売れ筋だったホイールを作ることにしてデザインを頼みに来ました。
売れるデザインは売れるホイールを扱っている会社に相談した方が良いと勧めたものの、どうしても私のデザインじゃないとダメと言うので引き受けましたが、やはり売れませんでした。 - 「TUBE BOAT」のアイデア(1990)
思い付きと言えば思い付きですが、自動車メーカー用のチューブの価格を聞いて、そんな価格で手に入るならと思いついたのが「TUBE BOAT」のアイデアです。もっとも、メーカー並みのコストで入手できるとは限りませんが。
安いし、シーズンオフの収納もスペースを取らないし、ビニール製よりはうんと安全だし、バリエーションは無限だし、企画を聞いて「これは良い!」と身を乗り出した企業は有ったものの、当時は、レースもメーカーの試作車などの仕事もピーク時でしたから、立ち消えになってしまいました。