「童夢の開発した車両の全ては私がデザインしました」と言いたいところですが、「CASPITA」だけは、当時、デザイナーとして童夢に在籍していた「クニ伊藤」がチーフ・デザイナーとしてスタイリングを担当しています。しかし、私がプロデューサーとして全てを仕切っていましたし、私もポンチ絵を描きまくり、文句を言い倒してデザインを進めましたから、まあ、共同作業というところでした。
また、「童夢 RC-83」の前後カウルだけデザインを変えて「TOM'S 83C」を作りましたが、舘から「林がデザインすると分かるので別の人にしてくれ」と言われ、当時の童夢の副社長だった森田氏が手掛けましたから、フロントカウルのみ私の作品ではありません。加えて、F3,S101,S102,NSX,HSV,F1プロトなどは風洞のみがデザインしていますから私のデザインではありません。これ以外は全て私がデザインしています。
■1965 karasu(カラス)
今から考えても、悪夢じゃなかったのかと思うくらい無茶苦茶な無理に無理を重ねて奇跡的に出来上がった私の最初のレーシングカーです。ただし、製作スタートと同時くらいに浮谷が実車を持っていってしまいましたので、仕方なく、少し残った紙型だけを頼りに、がらんどうのガレージで勘をたよりに作った張りぼてみたいな出来でした。悲惨な開発秘話は拙著「童夢へ」を参照ください。
■1965 Tojiro-Ⅱ
浮谷東次郎のドライブでカラスが優勝した後、突然に訪ねてきたKSCCの矢吹さんとK氏の依頼で製作。しかし、完成して間もないレースの前日、浮谷が練習車で事故死してしまったので名前が「Tojiro-Ⅱ」になりました。星島浩さんがボンネットに東次郎の似顔絵を描いて夜の鈴鹿サーキットの追悼パレードの先頭を走ったシーンは忘れられません。
■1966 Tojiro-Ⅲ
第3回日本グランプリを目標にグループ7のTojiro-Ⅲを作り始めましたが、当初予定の、FRPモノコックやオリジナル・サスペンションやエンジン位置の後ろ下への移動などの革新的な開発目標の全てが、時間と資金不足で実現不可能となり、結局、S600のフレームにオープンボディを架装しただけとなってエンジンが飛び出したままとなってしまいました。
■1966 MACRANSA
時間切れで失敗作となってしまったTojiro-IIIをベースに、S600用のレーシング・ボディキットと割り切って作り直したのがMACRANSAです。フレームが独立した構造のS600のボディを積み替えるだけで、エンジンをチューニングするよりも安く速くなったので、結局、20台くらいが製作されたはずです。ただし、オリジナルMACRANSAから型を取ったコピー品も出回っていましたから実態は不明です。
■1969 KUSABI
当時、憧れていたピート・ブロックがサムライ・プロトのベースに使った「Le Grand」のシャシーを安く買えるチャンスがあったのでKUSABIを製作することにしましたが、予定調和のごとく途中で資金切れとなり行き詰っていたところを田中慶治(現在はGainerのオーナー)が買ってくれることになり完成に漕ぎつけました。しかし、2002年になってFerrariのGTマシンをとんでもなく安く作らされましたので借りは返しています。
■1971 PANIC
レーシングカーを作るたびに資金調達に走り回り、完成した頃には借金の山という生活に限界を感じて、もう足を洗おうと決心していた頃の最後の作品です。とにかく金が無かったのでFJしか作れなかったというのが実情ですが、実は、このマシン、レーシングカーとしての評価はともかく、金のかからない製法に関しては特筆すべきアイデアが盛り込まれています。
■1978 童夢-零
PANICを最後に レーシングカー作りから足を洗い、遊びほうけていた私ですが、やっぱり車造りを諦めきれずに、レーシングカーがダメならスポーツカーという単純な発想から、1975年から開発を始めました。とにかく、この作品が世間から評価されなければ童夢はそのまま終わりですから一発勝負でした。だから、世間の注目を集める事だけを狙った打ち上げ花火のようなデザインでしたが、目的は達成されたと言えます。
■1979 童夢 P-2
1年以上、童夢-零の国内でのナンバー取得に努力を続けましたが、運輸省に相手にもされず、交渉すること自体が嫌になって挫折。アメリカでの取得を目指してアメリカのレギュレーションに合わせたP-2を2台開発しラスベガスなどへのテスト走行も重ねていた頃、ルマンに挑戦するチャンスが訪れ、瞬間的に忘却の彼方へ。
■1979 童夢-零 RL
何しろ、夢のまた夢だったルマンに挑戦するのですから、資金と経験と時間が不足という三重苦よりも遥かに情熱が上回っていました。だから、安易な妥協はせずに童夢らしさを盛り込んで開発しましたが、今から考えても、どうして作ったのか思い出せないものの、開発がスタートしてから3ヶ月目には実車が完成していました。オープンの規定なのにバックミラー・カバーと称する屋根を付けて行って車検が通らず、あわや車検落ちというような冒険を重ねつつ2カーエントリー。憧れだけだったルマンが現実となり止められなくなりました。
■1980 童夢 RL80
初年度の惨敗の原因を参考に新設計したマシンです。スタート直後に中古で買ったギアボックスが割れたので取り外して町の溶接屋さんに持ち込んで修理をしたために終始最下位でしたが、日本車として初完走を果たし、ベストメカニック賞といえる「エスクラ賞」をもらいました。私は、箱崎でパスポートの期限が切れているのが発覚。童夢、TOM’Sチームの罵声を浴びながら、急遽、お見送り側に変わりました。
■1980 童夢CELICA TURBO
1980年のルマンは新型車1台の参加となりましたが、ちょっと心許ないので、TOM’Sが購入したシュニッツァー・ターボに目をつけ、新しい車体を作ってやるからルマンに出ろと持ちかけたところ舘は瞬時にOKしました。
ところが、小野の設計になるセンター・ラジエターは全く冷えず、セブリングやリバーサイドのレースでは火だるまになりルマンは予選落ちとなりました。それでも仲良く付き合っていけるのが舘の懐の深いところです。
■1981 童夢 RL81
1979,1980とほとんどスポンサーも付かない状況で頑張ってきましたが、もう限界と思っていた時に、工作機械のAMADAが支援を申し出てくれました。チームウェアのブルゾンが高いのでAMADA印のはっぴ(500円)を作って持っていきましたが、これが大好評で、たくさんのトップチームがウェアの交換に来たので大量の高級ブルゾンをゲットしました。
■1982 童夢 RC82
この年よりレギュレーションがCカーになったのでボディを変える必要がありましたが、何しろ資金が無かったので、往復の輸送費を節約するために、英国で最も安いボディ屋さんに外注しました。簡単なライン図だけ渡して帰ってきましたが、全く連絡が取れないので英国まで様子を見に行ったら、おじさんが一人で電話もない農機具小屋でマスターモデルを磨いていました。少し心配でしたが予定日前には完成していました。侮れず!
■1982 TOYOTA童夢 Celica C
TOM’Sの舘が「TOYOTAでCカー作ることになったぞ!」と興奮した声で電話してきたから私も小躍りせんばかりに喜んだのですが、よく聞くと400万円を出すだけ、しかも、Celicaの宣伝費から捻出するからCelicaの形をしていなくてはならないとの事。400万円もCelicaの形も有り得ないとゴネる私に、舘は「この一線を越えさせればTOYOTAは必ずのめり込んでくる」と熱心に口説くので、童夢がかなりの負担をする形で開発することになりましたが、舘の予言は的中しました。
■1983 DOME RC83
舘とのトヨタをレースに引き込む作戦は 1982 TOYOTA童夢 Celica C 製作以来、進展がありませんでしたから、しびれを切らした私は、童夢として独自に新型車の開発を開始しました。この頃はベンチュリーシステム台頭の時期でしたが、開発にはムービングベルト風洞が必要不可欠でした。しかし所有していなかった童夢は、見よう見まねだけでベンチュリーシステムにトライしたものの予定通り失敗。失敗を予測してフラットボトムも用意していたので、ルマンでは途中でフラットボトムに変更しています。
■1983 TOYOTA TOM’S 83C
それを見ていた舘がトヨタに「童夢のマシンの前後カウルだけ変えてトヨタのCカーを作りましょう。金かからないし」と提案し、安さだけで了承されて生まれたのが「TOYOTA TOM’S 83C」という兄弟車です。
■1984 TOYOTA DOME 84C■1985 TOYOTA DOME 85C■1986 TOYOTA DOME 86C
■1987 TOYOTA DOME 87C■1988 TOYOTA 88C-V■1989 TOYOTA 89C-V
こうして舘とのトヨタ引き込み作戦は理想的な展開を見せ始め、1985年は童夢製のTOYOTA Cカーが国内耐久レースに5チームから参加し、童夢とTOM’Sはルマンへの挑戦を開始しますが、同時に、自動車メーカーとの付き合い方の難しさを痛感しましたし、何もかも下請けのせいにされてしまう環境は不条理に満ちていましたから、メーカーとの付き合いに慣れていなかった童夢、と言うよりも私は、様々な場面で角を立てまくり、だんだんと外の方に押し出されていきました。
ルマンからは1986年で外され、車両開発の関与も1989年のTOYOTA 89C-Vは70%、1990年のTOYOTA 90C-Vは30%と薄れてゆきフェードアウトしてゆきます。
■1985 DCFI BLACK BUFFALO
前年、本田博俊、由良拓也、生沢徹の3人が、私に断りも無く(断る必要もありませんが)鈴鹿8耐にオリジナル・バイク「White Bull」で参戦したのを僻んで、次の年に、カーボン・フレームの「Black Buffalo」を開発して参戦しましたが、多くの人から名前まで真似するなとクレームがきました。3500万円を投じた洒落が通じなくて残念なプロジェクトでした。
実際には、カーボン製品研究開発の第一歩として体積の小さいバイクから手掛けた記念すべき第一号作品です。
■1988 DOME F101
ルマンから外されて路頭に迷いそうになっていた時、DUNLOPから所属のF2チームが撤退するので後を引き受けてほしいと依頼がありF2レース(その後、F3000に移行)に参戦することになりますが、童夢としては直ちにF3000マシンの開発に着手します。初号機は、新しい試みにトライする実験車のようなマシンでしたが、それ以前に、タイアップしていた繊維メーカーのCFRPの積層技術が未熟だったために走るたびに剥離が生じ、たちまちお蔵入りとなってしまいました。
■1989 JOTTO CASPITA
スバルからのCカーを作りたいというオファーに端を発して、コロコロとコンセプトが変わってスーパー・スポーツカーになる頃にワコールが参入して開発がスタートするも、折からのバブル崩壊を受けてスバルが途中で手を引いてしまったのでプロジェクトは座礁しかけますが、ワコールが継続してくれたので何とか完成まで漕ぎ着けました。スバルがメインの時代の水平対向12気筒のモデルと、ワコールが引き継いでからのJUDD V10の2機種が有ります。スバルが「何か形が残っていないと社内的に説明が付かないので車両をしばらく借りたい」というので一号機を貸しておいたら、知らない間に「日本自動車博物館」に寄贈してしまい、返ってこなくなりました。
走行シーンは「CASPITA」(1994)でご覧いただけます。
■1991 DAIHATSU X-021
童夢が開発したことを公表されている貴重な自動車メーカーのプロトタイプです。「現在のLOTUS 7」を作って150台だけ売ろうという企画でしたから熱心に取り組み、やっと数台のプロトタイプが完成した直後にバブル崩壊のあおりを受けてキャンセルになってしまいましたが、ライトウェイトの極致をいく高性能車でしたから残念です。なお、ボディデザインはDAIHATSUの関谷氏が担当しています。
車両の解説とレストアの記事は「童夢の奇跡」のP236でご覧いただけます。
■1991 DOME F102
F101のトラブルから2年以上を費やして研究を重ね、やっと実戦車両の開発に漕ぎつけましたが、当時はDUNLOPのワークスとしてタイヤ開発を担当していましたから、ユーザーの多くが使用しているLOLAと同様の特性にするように求められ、足回りはほとんどLOLA、空力だけ追及するというスタンスで開発されています。
■1994 DOME F104
当時、下手をすればBSよりも3秒は遅かったDUNLOPを勝たせる重責を担いながらF3000マシンの開発を続け、やっと、1994年に国産初のF3000シリーズ・チャンピオンを獲得する事が出来ました。
■1996 JTCC HONDA ACCORD
それまでの不振を払しょくするためにベース車をACCORDに変えて、車体の開発も童夢が引き受けることになり、96〜97年と圧勝したためにJTCCそのものが崩壊してしまい、流れはGTレースに向かいます。
■1997 HONDA NSX-GT
HONDAはJTCCの崩壊を予想した頃からJGTCへの方向転換を図り、その車両の開発とレース活動を童夢が引き受けることになりました。もともとが、いろいろなマシンを勝たせるためにハンデを課すレースですから勝ち続けることは出来ませんが、その都度にハンデを克服する技術開発を駆使して上位グループが指定席となっていました。
■1998 FD & SRS-F
HONDAのドライバー育成システムSRS-F用の教習車及びFormula Dreamレース用のレーシングカーの開発/生産を依頼されました。それまでのマシンがアルミ・モノコックだったので、高度な安全性を目指して高剛性なCFRPモノコックを開発しますが、疲労しないため、3年毎と見積もっていたリピートオーダーが来なくなった「福助の靴下」型営業的失敗作です。
■1998 ML PROTOTYPE
HONDAと無限からの依頼で開発したオーバル可能なレーシングカーです。もてぎのオーバルの活用方法に悩んでいたHONDAがフォーミュラ・ニッポン(FN)にオーバルを組み入れる事を条件にMLのシャシーを提供しようというレース界にとってはありがたい計画でしたが、外国製マシンの輸入利権が侵されることを恐れた当時のFNの会長から断られてお蔵入りとなった可哀そうなマシンです。
■2001 DOME S101
チーム郷とのタイアップ企画として、FIAスポーツカー選手権のSRI規格車両(市販レーシングカー)によるルマンを含むFIAスポーツカー選手権への参戦計画をスタートさせました。この計画通りにはいきませんでしたが、これをきっかけに童夢はルマンに復帰を果たすことになり2007年まで続きました。
■2003 LOLA-DOME F106
1995年より、既存のシャシーを使用する前提でHONDAのF3レース活動を請け負ってきましたが、当然、オリジナルシャシーの開発を目指すことになります。HONDAの反対を受けつつも強引にLOLA社との共同プロジェクトとして開発を開始しますが、実際には、全ての開発と製造は童夢で行っています。
2004年、オリベイラは全20戦中16戦で予選1~2位を獲得し、その驚異的な速さを実証するも、本戦では毎回のようにスタートに失敗してシリーズ2位に埋没するという笑えない結果となっています。
■2005 DOME F107
LOLA社との関係は続かず、2005年には童夢の名前で新型車を発表します。しかし、この年は、改良した風洞の計測装置に不備があり、当時、開発した全てのレーシングカーが予定の性能を発揮できないというトラブルに見舞われていましたからシャシーも本調子ではありませんでしたが、何よりも、HONDAが素人のドライバーを投入してきましたのでライバルには歯が立たず、F107は実力を発揮できないまま2006年でHONDAのF3活動から外れます。
■2008 DOME S102
翌年からTOYOTAとルマンに挑戦(第二期)することになっていたいましたから、その試作車という意味合いを持つこのマシンは、童夢の歴史上、最高の開発費を投入して開発された非常に贅沢なレーシングカーです。また、今後の改善の礎となるように多くの実験的要素も取り入れていましたから、実戦的というよりも実験的なマシンであり、これからの継続的な参加を前提として開発されました。
ただし、トヨタはリーマンショックを理由に話を白紙に戻してしまいましたから白日夢となってしまいましたが、ご存じのように、その後は違う形で参戦を続けていますから本当の理由は違うところにあったのでしょう。
■2009 DOME F20
日本自動車レース工業会(JMIA)で立ち上げようと企画していたインシュレーター径が20mmと外形寸法と使用カーボン・モノコック以外は全く制約のない「F20レース」用のプロトタイプですが、久しぶりにクレイモデルを作ってデザインを進めました。アメリカのショーに展示していたら、お師匠のピート・ブロックから「私が最近見たレーシングカーの中で最も美しいマシンだ」とお褒めのメールが届きました。
■2010 HONDA HSV
いろいろあってGT500全車がFRに規制されてしまったのでNSXはお払い箱となり、やむなくHONDAはHSVという幻の車を創出して対応します。つまり、ベース車の無い一からの開発でしたが、それまでのノウハウを最大限に活かして、デビューイヤーをチヤンピオンで飾りました。
■2010 F108
それまでのJAF-F4では、コストの問題からカーボン・モノコックの使用を禁じられていましたが、あまりにも危険なので改正を提案しても、レース界からはコストが上がって参加者が減ると心配されて反対されていました。そこで童夢では、特殊な製法を開発してアルミ・モノコックと同等の価格のUOVA(カーボン)モノコックを開発し、やっとJAFのレギュレーションを変えさせました。その最初のJAF-F4なので、かなりカッコ良さを追求しながら開発しましたが、今まで、スタイリングに関して良くも悪しくも評価を聞いたことがありません。
■2012 F109
コスト問題で、どうしてもカーボン・モノコックをうけ入れない「スーパーFJ」の為に、せめて安全性の高いスペース・フレームを提供してやろうと思い画期的なフレーム構造にトライしました。加えて、設計者の育成の為に若手グループに開発を担当させましたが、自分なりの拘りがあればどうにでも解決手段があるものを、ちょっとした障害でも直ぐに回避してしまうから、全てが無難でありきたりな設計になってしまい、特にダメという訳ではないのですが、童夢らしさの欠片もない、ちょっとガッカリのSFJシャシーです。
■2014 マザー・シャシー/マザー・シャシー86
私の最後の夢であり大博打であった「童夢と林みのるの最後の夢」の計画の一環として開発を計画していたスポーツカー「とわ」のモノコックをGT300にも流用出来るような設計してGTAに提供しようという話を進めていました。結局、その元となる計画そのものがとん挫してしまったのですが、先行して開発していたモノコックは残ったので、それをベースに開発したGT300用ベース・シャシーです。
「童夢と林みのるの最後の夢」については10 Aug. 2022「童夢と林みのるの最後の夢」山口正己氏の寄稿から抜粋を参照してください。
「マザー・シャシー86」は、ベーシック・モデルとしてマザー・シャシーにTOYOTA 86のカウルを装着した市販モデルです。
■2015 F110
Aug.20.2013「小型黒船の来襲<FIA-F4がやってくる>」で詳しく説明していますが、FIAが決めた超安価な入門フォーミュラが日本に上陸してくる可能性がありましたが、そうなると国内のレース産業は壊滅的なダメージを受けるのに誰も動こうとはしませんでしたから、私は私財を投じても阻止しようと立ち上がったら、トヨタが「それは個人で負担するような問題ではありません」と支援してくれることになり、私は老後のホームレスから救われました。2015年の開幕戦には32台のエントリーが集まり現在も盛況です。
■2015 STRAKKA DOME S103
当時、私は「童夢と林みのるの最後の夢」に専念するために社長を鮒子田に交代していましたし、もうルマンからは卒業を宣言していたのに、まだまだルマンに未練のある鮒子田は、2012年にはS102を改良してS102.5としてペスカロロと組んで参戦します。また、2015年には、英国のSTRAKKA TEAMと、童夢が設計しSTRAKKAが製作するというJVを組んで、童夢として18回目のルマンに挑みますが、童夢の評価を貶め大金を浪費しただけの最悪の結果となります。私は、この大金を祇園と銀座でばらまいた方が、まだしも意義があったと思っています。