COLUMN / ESSAY

「そろそろ自動車レースを始めましょう!」 ―自動車レース論―

この辺りの事情は「新GTA誕生秘話」 -レース界裏話-で詳しく書いていますが、崩壊寸前のGTAの救済に動いていた舘や坂東から、再建についての具体化に行き詰っているから参謀として助けてほしいという話が来ました。
話を聞く限り、潰れるとまずいから何とかしたいという、いわばその場しのぎの方法論に終始していましたが、私は、そんな消極的な問題ではなく、わが国で唯一盛況な自動車レースの実験を握るのだから、この際、全てのレースを統括する天下統一を図るべきとけしかけましたが、いくら説明しても「解った」と言うものの立ち上がるところまでは行かず堂々巡り状態が続いていました。
そこで私は、基本理念を理解してもらおうと書いた論文が「そろそろ自動車レースを始めましょう!」ですが、舘は「林らしいタイトルだな」と、褒めたのか貶したのか知りませんが、その一言で終わってしまったので効果は無かったようです。
その後、「新GTA誕生秘話」のようなどんでん返しの結果、現在の坂東GTAが誕生します。

正しい自動車レースって何だ!

まずざっと概念だけをお話しすると、今までの、若手ドライバーを育ててF1にもぐりこませれば日本の自動車レースは華やかになるという、極めてあやふやで何の生産性も無いような幻想の世界から脱却し、自動車レースは自動車開発技術の戦いであることを思い出し、その上で、日本の自動車レース技術や産業や工業力を育成することにより、そこから得られる利益をレース界の中で還流させて豊かにすると共に、将来的には、貿易収支の改善にも役立つレベルにまで拡大発展させることによって、日本の自動車レースの経済力を強固に発展させながら、世界のトップレベルの技術力を手中に収めようと言う話です。
日本が成熟した先進のヨーロッパの自動車レース界に、唯一、つけ込める隙間があるとすれば、日本の優秀な技術力と工業力しかありません。

今、最も重要なことは、日本の自動車レース産業の保護と育成です。
どこの国でも、例え、自国の産業が未成熟であっても、将来の発展振興を期待して手厚い保護育成に努力するものです。
東南アジアの自動車産業においても、当初は、とんでもない車を作っていたにもかかわらず、何百パーセントもの関税を課して外国製品の輸入を阻止して国内産業の育成に努めたからこそ現在の成功があります。
しかし現状でも、日本の技術はヨーロッパに比べて大きな遜色があるとは思えませんし、価格面でも物価高騰のはなはだしい英国よりも安く作れるはずです。F3シャシーの生産に際して全部品に関してローラ社と相見積もりを取りましたが、90%の部品に関して日本のほうが安かったし、品質面でも凌駕していました。
それでもなおかつ、日本のレース界の需要は日本のレース産業を見向きもしないで海外に流れていきます。

日本の自動車レース産業が世界を制する日

チャンスさえ与えれば、日本人の英知と日本の技術力工業力は、またたく間に、世界の頂点に到達するでしょう。英国のMIAの発表によると、英国の自動車レース産業の年間生産高は約7200億円。雇用者数、約38,000人。関連企業数、約4,000社とあります。もちろん、この中には、日本から流れてゆく大金が含まれていますが、日本の自動車レース産業の発展振興は、その流出を止めるだけではなく、世界のマーケットへの進出も夢ではなくなります。流出するお金が減り輸出が増えれば、これはすなわち貿易収支の改善に寄与することになり、そのうちF1界には日本製パーツが溢れ、MIAから泣きが入るようになるかもしれません。
そうして向上する技術力、産業力につれて、自動車レースに対する感性や見識も高まり、何事にも正しい判断が出来るようになっていくでしょう。事、自動車レース産業界だけが潤うという話だけではなく、つまるところ、日本の自動車産業全体のレベルアップに繋がっていくはずですし、国際貿易収支の改善にまで貢献することになるでしょう。
育てるだけのインフラもないまま、ドライバーの育成だけにうつつをぬかして散財の限りをつくしていては、失うものは金銭だけではなく、残るのは力のない抜け殻のような自動車レース界と、レーシングカーのようなものが走っているギミックのようなドライバーの運動会と、まばらな観客と、渋谷を歩き回っても誰一人とサインを求めることの無い無名のドライバーたちだけです。

丸投げ先を変えるだけで、日本の自動車レースの発展振興に寄与できます。
日本のレース界が、日本の自動車レース産業を無視する傾向は、日本の自動車メーカーのF1やルマン挑戦に如実に現れています。「勝ちを急ぐ必要があったから海外の既存技術に丸投げするしかなかった」というのが彼らの主たる言い分ですが、長年に亘り、海外の技術力の強化向上のために大金を投じ続け、国内の自動車レース産業や技術をないがしろにしてきた結果、その日本の投資で育った技術はヨーロッパのレース界に拡散し、また、その技術と戦うためにお金を投じ続けます。さながらマッチポンプです。おかげで停滞を続ける日本の自動車レース技術との格差は開く一方です。
もっとも悲惨なのは、依存度が高すぎるために自らの感性や見識さえも育たず、いつまでたっても、何をどうしたら良いかさえも解らないままだから飽きずに愚行を繰り返す事です。自動車メーカーが海外に依存している何割かを国内に振り向ければ、その資源により、日本の自動車レース技術と工業力は瞬く間に発展向上し、それにより、年々、そのパーセンテージは大きくなり、やがて、100%を通り越して輸出が拡大すると言う夢物語です。
日本のレース界が、日本の自動車レース産業をないがしろにする事例には事欠きませんが、最近の出来事では、FCJのシャシーにフォーミュラ・ルノーが導入されました。タトゥースというフランスの小規模なコンストラクターの製品ですが、あのレベルのシャシーなら国内でいくらでも生産できますし、サスペンション・パーツなどは40年近くもフォーミュラを作り続けている鈴鹿あたりのコンストラクターなんかの方が、うんと優れた製品を製作するでしょう。たぶん、何らかの利権がらみで国産採用の検討もなされなかったでしょうから完全無視に等しい状況です。

自動車が好きな子供たちはどこに行った?

まさに、自動車開発技術を競い合うことが命題である自動車レースにおいて、その開発技術を海外に依存して恥じない体質は、単に、国内の自動車レース産業を疲弊させるだけに止まらず、レーシングカーの開発という、本来は、子供たちの憧れの職業に対しての価値を著しく低下させ興味を失わせている原因となっており、ひいては、自動車を魅力的なマシンとして捕らえるというよりは、単なる便利な道具としか認識しなくなってきているように思えてなりません。
私は故あって、長年に亘り、鳥人間コンテストの審査員などを努めてきましたが、事前審査には400機以上のエントリーが殺到します。中には、造ってしまえば出場させてもらえるとばかり完成機の写真を送りつけてくるつわものも居るくらいです。
また、ロボコンなどへの出場者も、年々、増加しており、日本の若者たちの創造への意欲は捨てたものではないのに、自動車への関心だけが低くなっている傾向に、自動車レースにおける技術軽視の傾向が少なからずの影響を及ぼしているのではないかと思っています。

また、自動車メーカーの、海外に丸投げすることを大前提とするF1参戦に対する姿勢が日本の若者たちに与えた悪影響は計り知れないと思っています。レーシングカーの開発を生業とする我々だから肌身を持って解りますが、日本人がレーシングカー・デザイナーを目指しても、しょせん、自動車メーカーは海外に丸投げして日本人を使わないし育てもしないのが見えていますから、若者たちが、頂点を目指せない事が解っている世界に興味を持たないのは、ある意味で当然と言えます。
日本製レーシングカーが活躍する場面が増えれば、少しでも、このような傾向に歯止めをかけられるかもしれません。少年たちの自動車への興味なくして自動車レースそのものに意味もありませんから。

間違いの素、FN的日本の自動車レースとの決別

F3000時代の終盤の頃、大金を投じてレースに出場しているのに、エントリー費を取られたり、パスなど各種経費を徴収されたり、主催者側のレースを開催してやっているという意識や、サーキット側の走らせてやっているという感覚は変わらず、サーキットやレース主催者に出走料の交渉をしても「この施設の維持管理にどれほどの費用がかかると思っているのか?レースを主催するたびに大赤字だ」と一蹴されていました。
しかし、その割には、年間8戦だったのが、9戦になり10戦になり、ついには12戦になりそうになっても、相変わらず、出させてやっているという論理は変わらず、しかも、チームの負担は一方的に増大していきました。
理屈の上では、それほど負担が重荷ならレース数は減少するはずで、その開催権が奪い合いになっている状況はあまりにもおかしな出来事でした。
さすがの参加者もおかしいと思い始めた頃、私が参加チームの団体であるJFRAを設立し改善に乗り出した矢先、バブル崩壊を向かえ、主催者側も参加者側も、お互いにそれどころではなくなってしまいました。
また、ヨーロッパではF3000が終結しワンメイク・レースへの変わり目を迎え、日本も今後の進路を選択する必要に迫られていましたが、その時、フジTVを後ろ盾に主導権を握ろうとした元F1ドライバーの画策により、フオーミュラ・ニッポンの新体制がスタートしました。
この計画は、日本のレース界が、全てをこの個人と一私企業に白紙委任するというとんでもない約束を前提としていましたが、結局、ただ一人(私)だけの反対の声は届かず、たいした検討や協議もなされることのないまま、単純に、TVの力で明日から天国と踊らされた全てのチームが追従していきました。
当初こそ、いろいろなコンストラクターのシャシーの導入が図られましたが、これは、全くレーシングカー造りを知らない人たちの浅知恵で、それまで日本のF3000に各種のシャシーが走っていたのは、世界中でF3000レースが開催されていたから、各コンストラクターがそのマーケットに向けて発売していた各種シャシーの一部が輸入されていたに過ぎません。複数のコンストラクターが、20台そこそこの日本だけのマーケットの為に、最新のフォーミュラを投入し続けることは不可能です。
当然、早期にワンメイク・レースに移行しましたが、これは単に、あらゆる自動車レース産業や技術を排除することにより目先のコストを下げただけのギミックであり、お金もかからないかもしれませんが、技術力の進歩を排し、産業を衰退させ、レース界に流入する資金を止める、まるでドライバーの為だけの駆けっこ大会のようなものでしたし、全車両を輸入に頼っていましたから、毎年、大量の日本のレース予算が海外に流出していました。
フジTVが手を引き、やっと終焉を迎えると安堵していたら、不思議なことに、自動車メーカーが救済の手を差し伸べるは、エンジンの供給を開始するは、本質的な問題解決には無縁の単なる延命策が続きます。FNにまつわる疑問や不思議な話はいろいろありますが、もっとも不思議なことは、誰も、スタンドのまばらな観客の理由を考えようとしない無責任さです。

以前、HONDAが、オーバルも走れるFN用のシャシー(ML)を開発し、FNに供給したいと申し入れたことがあります。HONDAとしては、FNの中にオーバルレースを取り入れたいという思惑はあったものの、一年間ノンオーバーホールのエンジンとFN用のシャシーの提供は、FNにとっては、サンタさんのプレゼントほどに嬉しい話のはずでした。
誰もが、高いシャシーの購入やエンジンのオーバーホール代に四苦八苦している時でしたから、無限(当時)の木村さんが足ながおじさん的な気分で話を持ちかけたところ、FNの事実上のボスである元F1ドライバーから、「一社(童夢)に利益を独占させる訳には行かないから」「今までお世話になってきたエンジン・チューナーに不義理は出来ないから」という理由で断られました。
また、全てのシャシーがレイナードというワンメイク状態のときに、800万円もするアップデート・キットを売り出し、この元F1ドライバーの主宰するチームが率先して買ったから、みんなも買ったという馬鹿げた出来事もありましたし、レイナード社が倒産した時、その年に新車を購入したチームがかなりあるにもかかわらず、次年度にはワンメイクに移行し全てのチームがローラの新車の購入を余儀なくされたという事もありました。
これらのあからさまな利権構造がもっとも嫌うことは、特定の輸入商社以外から販売されるレーシングカーの出現です。従って、現状、日本で走っている全てのフォーミュラは、この輸入業者一社が独占しており、公取もびっくりするほどの完全独占状態です。
見方を変えれば、この業者が輸入できる車種でレースをしている状況とも言えます。
こういう話に対する反論としてよく言われるのは、国産化すると高いとか品質の差という理由ですが、過去において、日本で唯一、この種のレーシングカーの開発が可能な童夢に見積もりの依頼が来たことなどは一度もありませんから、はなから無視ですし、品質に関しても、1994年にF3000のシリーズ・チャンピオンを獲得した「童夢F104」やF1プロトタイプの「童夢F105」を見れば、外国製のワンメイク・レーシングカーとの品質差は一目瞭然です。
また、ワンメイク・レースは、輸入業者一社だけが儲かるという構造欠陥以外にも、癌細胞の全身への転移のようにレース界そのものを衰退させるという恐ろしい副作用を持っています。考えればすぐに解ることですが、ワンメイク・レースというのはレーシングカーの機能を平準化してドライバーの能力評価を容易にするという一面がありますから、つまり、技術要素を何も導入しないことによって成立するレースであると言うことです。
極端な場合、セッティング以外触ってはいけないというケースもありますから、レース関連産業は締め出され、そこにはエンジニアの活躍の場も無く技術力の向上も望めない、ただ、ドライバーだけが、己の技術を見せつけるためだけに走っている非常に傲慢なレースがあるだけです。

額縁ショー

「ある美術館で展示会が開催されています。それは、額縁職人の腕を競う発表会で、さまざまな額縁が展示されていますが、絵の良し悪しで額縁の評価を誤らないために、額縁の中の絵は全て統一されています」これが現状のFNの実態です。これぞ本末転倒、主客転倒、本来の額縁の役目は、絵画を引き立たせ守るべき事にあり、額縁だけ並べ立てても、誰も見に行かないし、これでは文化も育ちません。ミケランジェロやダヴィンチの作品が、額縁の為のお飾りだとでも言うのでしょうか?

こう言うと必ず「ヨーロッパにもワンメイク・レースはある」という反論が帰ってきますが、ヨーロッパの場合、F3であれGP2であれ、その先にF1という輝ける頂点があり、そこに到達した一握りのドライバーには有り余る収入と栄誉が待っているから成立する世界です。
だから、そういう可能性を秘めた若いドライバーをバックアップする人も企業も沢山あるし、チームは、ドライバーサイドが支払うお金で成り立っています。ここが終点であるFNとF1へのステップボードであるGP2とは本質的な成り立ちが異なります。
またこう言うと、必ず「テニスやゴルフも競技者だけの戦いだ」と反論されますが、これらの一般のスポーツは、もともと体一つで戦う性質のものであり、ラケットもクラブも競技道具に過ぎず、自動車レースのようにレーシングカーの開発やレース費用に天文学的な予算が必要な競争とは根本が異なります、
それほどドライバーが主役の世界なら、ドライバーがレース費用をチームに支払うべきであり、ドライバーに大金を払って乗ってもらうのは筋違いです。また、ドライバーの優劣を競うためだけに、自動車メーカーが何億~何十億を投じてレーシングカーという競技道具を開発してやる必要も義理も無く、まずは「ドライバーはレーシングカーを勝たせるために存在する」という原点をお忘れなく。
日本の自動車レースの変質度を表す代表的な例としてFNを取り上げたのは、このレースに日本の自動車レースの問題点が全て凝縮されていますから、このレースに存在価値を感じている人には、今回、我々が言わんとしている事の真意は全く伝わらないと思います。
つまり、FN的自動車レースからの決別が、新たなる日本の自動車レースの出発点となるし、改革の第一歩となるということです。

日本の自動車レースのアマチュアリズム

何故、これほど左様に、日本のレース業界の思考回路が狂ってしまったのかを考える時、原点に「儲からないけれど好きでやっている」というような自己犠牲的な思いが根強くあり、それが時にはプライドの支えになっていたり、時には、斜に構えて孤高を気取る要因になっているような気がします。つまり、趣味の世界だから利益に汲々とすることにはなじまないというような雰囲気を感じます。
しかし現在、第一線で活躍しているレース業界の各企業は、もう何十年もこの仕事を続けており成長してきました。それ以外の事業を行っている企業は少なく、それってつまり、みんなレースの仕事で食って来た訳で、充分にビジネスでありプロフェッショナルの世界ではないでしょうか?

何が何でも「若手ドライバーの育成だ」

また日本では、何かと言うと「若手ドライバーの育成」が錦の御旗になりがちですが、現状、やたらと新人を生み落として砂漠の中に放り出すようなものですから、はなはだ無責任な行為で、そうして育てられたドライバーが、サラリーマンの年収に毛の生えたほどのギャラでGTのシートを奪い合う現実を、まず、改善することが先決ではないでしょうか。
もともと、レーシング・ドライバーは男の子の憧れの職業なのですから、そこに到達すれば余りある利益と栄誉が得られる頂点さえ用意しておけば、いちいち育てなくても勝手に努力してよじ登ってくるでしょうし、それが健全な育成方法です。
現在のように、おんぶに抱っこ、真綿でくるんで大切に育てるような環境からは何も生まれてきません。
「若手ドライバーの育成」は、ドライバーOBのリタイア後の数少ない食い扶持の一つとして、ドライバーOBのドライバーOBによるドライバーOBの為の「若手ドライバー育成ビジネス」としか言いようがありません。

もう手遅れかも

私は、技術の介在を疎ましがるような風潮のある現在の日本の自動車レースに何の魅力も感じませんし存在の必要すら認めません。だから何とか、自分の生きてきた世界が、もっと素晴らしい価値ある世界になってほしいと願っていますが、15年間に亘って同じ意見を述べ続けてきて感じたことは、もう手遅れではないかと言うことです。
日本の自動車レースの資金のほとんどを自動車メーカーに依存している現状では、日本の自動車レース界というものは、自動車メーカーの庭先の池にしか過ぎませんし、我々は、その池の鯉のようなもので、手が鳴ったら駆けつけると麩がもらえて、そこそこ優雅に生きていけます。その鯉たちに、大河に出ろ!自立しろ!と檄をとばしても、もう、この居心地の良い池からは出られないでしょう。

しかし、1970年に開催された第3回東京レーシングカーショーの盛況ぶりは、当時、手作りのレーシングカーを出品していた私の眼にも輝ける未来が約束されているように見えましたし、直ぐに本場英国の技術を追い越してやると意気込んでいたものでした。それから37年、日本の自動車レースが、自動車の開発技術を外国に依存する形で存続するとは想像も出来ませんでした。
自動車の開発技術を度外視して成り立たせてきた自動車レース界の人たちの見識とは、つまり、金主である自動車メーカーの意向に恭順して成り立ってきた特殊な環境であり、結果的に、それが日本の自動車レースの方向性を捻じ曲げてきた元凶だと思いますし、FNのような、存在するだけで日本の自動車レースを疲弊させる悪性腫瘍のようなレースが延々続けられ、未だに、自動車メーカーが、この死に体のFNに点滴をしたり人工呼吸器を取り付けたりして延命を試みている現実が目の前にあり、そういう風景を眺めながら、その、あまりにかけ離れた自分の意見が、いかに異質なものであるかを実感せざるを得ません。

このように、日本の自動車レースは、このままのスケールとレベルで良ければ大過なく続いていくでしょう。しかし、もし、レース結果が新聞にも載らない、テレビでも中継されない、ドライバーの結婚相手はレース・クイーンだけ、レーシングカーもレギュレーションも海外からお取り寄せ、F1やルマンに挑戦する時は外国頼り、いつまでも自動車メーカーに縋りついていないと生きられない、そんな環境から脱することを求める人が居たら、本文を最初から読み直してみてください。
私は、このGTAの問題を小手先の復元処理で済ませるのではなく、これを機に「天下統一」を図る絶好のチャンスだと考えていますが、それには「自動車レースとは何ぞや?」という大命題から真剣に考える必要がありますし、その正しい答えさえ見つかれば、自然に流れは正しい方向に向かうはずです。「今、日本のレース界の知性が問われています」

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