ふとしたきっかけから素敵なYouTubeの動画を見つけました。
今まで、いわゆるエゴサーチというのをしたことが無いから知らなかったけれど、過去しか振り向くことができない老人になって、初めて「童夢」をYouTubeで検索してみたら、出てくるわ出てくるわ、こっぱずかしい昔のインタビュー映像なんかが出てきて、よくまあ、こんな青臭いことを言っていたもんだと一人赤面している。
その中で目に留まったのが、素組みモデラーのタマさん(@scalemodelbuilderchannel)で、なんか、実車とモデルカーの違いを乗り越えて、一緒に「童夢-零 RL」を作っているような錯覚に陥る不思議な世界観が印象的だった。
「童夢-零」を作った時にも、一番多かったのが「発売はいつですか?」という質問だったが、インタビューを受けている私がしらけるほど的外れな質問で、「童夢-零」を完成させるだけで精いっぱいだった私は、ひたすら、次のステップへの道が開けるのを待っていた状態だったから、「それは私が聞きたい」というのが正直なところだった。
もっとも、市販すると言って発表しているのだから仕方がないが、途方に暮れている私には困った質問だった。
「童夢-零 RL」を開発して最初にル・マンに挑戦した時も、一番多かったのが「勝てそうですか?」という質問だったが、インタビューを受けている私がしらけるほど的外れな質問で、多額の借金を抱え込みながら、ヨーロッパ中から中古部品をかき集めて製作し、トランスポーターも借りられないからロープで牽引して車検場入りした唯一のチームなのに、そんなチームに、どんなつもりで「勝てそうですか?」という質問をしているんだ!とムカッとくるが、発表会で「初参加初優勝を狙う!」とぶち上げているのだから仕方がない。
大嘘つきかペテン師のようなものだが、「作ったら終わりです」と言っては何も始まらなかっただろうし、「必ずリタイアします」ではル・マンに行きついてはいないだろうから、ここは、嘘も方便でごまかしておくしかなかった。
しかし、根が正直者だから良心の呵責は付きまとい、「CASPITA」で再挑戦したり「DAIHATSU X-021」に注力したり「遺作」を計画したり、ル・マンでは計18回も挑戦を続けるなど、何とか辻褄を合わせておこうと努力したが果たせなかった。
そこで、一気にケリをつけてやろうと一念発起して計画したのが「童夢と林みのるの最後の夢」という稀有壮大なプロジェクトだが、欲に狂った元嫁の反乱(「ブラジャーVSレーシングカー2 -digest-」参照)によりとん挫。
結果、単に私が引退しただけという無意味な幕引きとなったが、その後は、元嫁との紛争に激怒し過ぎて何もかもを忘れたまま10年くらいを浪費してしまい、多くを失った私は、即身仏のような隠居老人生活を余儀なくされている。そんな時に、素組みモデラータマさんの動画に出くわした訳だ。
動画の最初、「時を忘れ心を奪われるユノデェール 大気を突き破る咆哮が夢を呼び覚ます 思い知らせてやる 星屑の舞 運命の調べを・・・・」というナレーションで始まるが、私の心の琴線に触れたのは「星屑の舞」というフレーズだった。
「解れよ!私のような者がレーシングカーを作ってル・マンに挑むという事の無謀さを」という私の思いを、正に一言で言い表した名句で10回くらいは聞き直したものだ。もちろん、私にも少しの色気は有ったが、それは、次の「運命の調べを」というフレーズが物語ってくれている。
私が模型工作に嵌っていた小学生時代は、まだプラモデルは登場しておらず、船も飛行機も木から削って作っていたから、日本で初めて潜水艦のプラモデルが発売された時には、行きつけの模型屋のオヤジに「邪道だ!模型屋に置くな」とそっぽを向いていたので完全に乗り遅れてしまい、それ以来、乗り遅れっぱなしで、CR110が発売された時には思わず手が出そうになりながらも、まだ、プラモデルに手を出すことに敗北感を覚える時代だったからチャンスを逸していた。
そうだ!一度だけゼロ戦のプラモデルを作ったことが有るが、これは絵を描く時のモデル用だったから細かいパーツは取り付けず塗装もデカールも無しで、作った内にも入らない代物だった。
そんな、ほとんどプラモデルの制作経験のない私には新鮮な動画だったし、プラモデルの深淵さを見た気がするから、書斎に積んである未開封の童夢の車たちのプラモデルに挑戦したい気持ちは芽生えているが、いかんせん、視力も衰えて細かい作業は無理なので、諦めるしかない。
タマさんの「童夢-零 RL」制作シーンを観ながら、1978年から1979年にかけてのRLの開発シーンがまざまざと脳裏に蘇ってくる。あの狂気のような日々、当時は、毎日が狂気のような日々だったが、とりわけRLの開発は狂気そのものだった。
ル・マンへの挑戦を決めて、レン・ベイリーなどのアドバイザーと契約し、ACOにエントリーの問い合わせを開始し、DFVやギアボックスの中古の売り物を探し、ドライバーを探し、英国とフランスでのガレージを契約し、基本設計を進めて1/5の風洞実験を実施し、車両の製作にかかり、3ヶ月ちょっと後に東京のホテルで発表会をしているのだから奇跡としか言いようがない。
我ながら、よくぞまあ、あの予算で、あの期間で、あの少人数で、あの設備で、しかも日本で、あの大冒険に挑戦する気になったものだと信じられない暴挙だったが、だからこそ、「星屑の舞」というフレーズに心をえぐられるほど反応してしまったのだろう。
実は、「思い知らせてやる」というフレーズも、心の奥の奥の方に沈殿している澱のような部分に反応していたから、「思い知らせてやる 星屑の舞 運命の調べを」の全ての言葉の響きに心を揺さぶられ、また、動画を観なおしている私が居る。
素敵な言葉をありがとうございました。