COLUMN / ESSAY

「遥かなるルマン」 ―ルマンの迷惑な人たち―

いやはや、つくづく我が国から日本の技術で海外に戦いを挑むことの難しさを教えられたというか、社会的価値や意義や意味の無さを再認識させられたというか、ただただ空しい気分が満ち満ちてきて、今まで、世間がどうあろうと何と言われようとも、資金があろうが無かろうが借金が嵩もうが、一途にイケイケだった向こう見ずで御しきれないような熱情でさえも萎えていくほど、ルマンにかかわっているだけで不愉快な出来事が次から次へと巻き起こる。
原因は、一言でいえば、ありあわせのレーシングカーで参加するのに比べて、オリジナルなレーシングカーを開発してルマンに参戦することが、一般的に想像されているより遥かにお金のかかるプロジェクトであるということから発生するトラブルということだが、いかんせん、お金にまつわるトラブルに変わりは無いから後味のいいことではないし、必ず未収金が発生して負担が増大する。

まあ、ちょっとしたけじめの年となるだろうから、今までは黙して語らなかった童夢のルマン挑戦秘話のさわりをここで暴露したい気分になっていると言うところだ。

1979年、おもちゃの童夢-零の売り上げ低下を心配したおもちゃ屋さんが童夢の新型車で柳の下のどじょうを狙らおうと新型車の開発を頼みに来たことをきっかけに、「次もスポーツカーではインパクトがない。レーシングカーにしよう」という話に誘導してルマン参戦が具体化していった。
確か、おもちゃ屋さんから6000万円分のおもちゃの意匠権のロイヤリティの前払いを受けると言う条件で突っ走り、4基のコスワースDFVとZFのギアボックスを購入して、2台の童夢-零RLを製作して、国内で24時間テストを含む複数回のテストを実施して、事前にシルバーストンの12時間レースに参戦したのちにルマンを戦うと言う内容で8000万円の予算を計上したが、いくら30年前(2010年現在)と言えども、8000万円で足りる訳も無く、結局、ルマンから帰ってみれば1億円以上の借金が残っていた。
この時、テストの一部を松本恵二に頼んだのだが、たしかギャラは15万円くらいで数百キロを走らせた後「走行距離から換算するとお前のギャラってタクーより安いな」と冗談を言ったら、笑えない冗談だと根に持つこと根に持つこと、そんな時代だった。
それまでレースにスポンサーを募集したことも獲得した経験も無かったが、幸いにも、初年度と次年度に関しては頑張れと言う応援的スポンサーからの協力が得られたものの金額的にはまだまだ微々たるものだった。
なんとか借金を返しながらも、初年度は経験不足から散々な成績だったおかげでリベンジに燃えまくっていたから、事実上、ルマンから帰ってすぐに1980年に向けての新型車の開発が始まっていた。
もう、ずっぽりと泥沼に首までつかった見境のない暴走のようなもので、もう社内はルマン一色になり、ついこの間まで一心不乱に開発を進めていた童夢-P2には誰も見向きもしないまま、童夢設立の主旨は忘却の彼方に消えて行った。

1979年の借金も抱えたまま、童夢設立当時の主要収入源であったおもちゃのロイヤリティもほとんど無くなり、売り上げの 一番多かったおもちゃ屋さんは倒産していたし、全くスポンサーのあても無いまま、童夢RL-80を全く新規に開発して参戦、少し返しつつあった借金も以前にも増して膨れ上がってしまった。

当時の童夢は、まだまだ生まれたてで収益構造も確立していなかったし不安定だったが、みんな、それまでの最低最悪のコンストラクター時代を経験してきているから、おもちゃのロイヤリティで建てたとはいえ、京都宝ヶ池に自社ビルを所有していること自体が夢を見ているような気持で、借金の額は決して少なくなかったが、気持は向きだった。

いずれにしても、この2年間の戦いで、経験不足からの凡ミスは多々あったし、予算不足で満足のいく開発は出来ていなかったが、それまで、はるか雲の彼方の存在であったポルシェやフェラーリと互角のスピードで走っている我がレーシングカーを目の当たりにして、ここで撤退すると言う選択肢はもとより無かったが、さりとて借金はあっても資金は無く、途方に暮れているところに、ビックスポンサーの話が舞い込んできた。
AMADAという大手工作機械メーカーで、童夢にとっては初の本格的なスポンサーだった。
もちろん、いくら本格的なスポンサーと言えども、それで全てが賄える訳ではないが、何も無くても迷っていた我々にとっては、それを理由にと言うか、思いっきり背中を押されたというか、早速、童夢RL-81の開発に取り掛かったものだ。

借金はますます膨れ上がっていったが、ルマンに参加を続けていたおかげでの開発仕事もぼちぼちと増え始めていたので、浪費一方だった童夢の連中にも仕事をして利益を得ると言う、世間では当たり前のことが新鮮に感じるようになっていたし、その仕事も、主として自動車メーカーの生産車の開発関係が多かったから興味深く取り組めた。
少しずつ借金を返しながらも、ルマンに参戦してはまた膨れ上がりと言うイタチごっこを続けて1982年になった頃、TOYOTAのCカーを開発すると言う話が舞い込んできてTOM’Sとともに国内レースにも参戦するようになった。

我々は、TOYOTAチームとして国内レースへの参加を続けながらも、自費でルマンへの挑戦を続けていたが、もう、レース費用も半端ではなくなっていたから童夢の収益だけで充分なレース活動を行うことは絶望的な状況となっていたし、相変わらず減ることのない借金は、せっかくちょっとは身についてきた童夢の基礎体力も奪うほど大きくなってきていたから、そろそろ潮時かなと諦めつつあったとき、待ちに待っていたTOYOTAチームとしてのルマン参加の打診が舞い込んできた。

渡りに船とはこのことだが、1985年は、ガキの頃から夢のように憧れて続けていた、レーシングカーの開発で事業を成り立たせる、すなわち、童夢が初めてレーシングカー・コンストラクターという業務によって利益を得るという記念すべき年になった。

1986年までの2年間は、レーシングカーの開発もレース活動もTOYOTAチームとして行っていたので、従来とは全く違う安心感とか余裕もあったものの、一方、自動車メーカーのサラリーマンと言う、とても特殊な人種の特長的な思考回路と行動パターンに戸惑い翻弄されることも多く、大きな違和感も募っていった。
私は、これらのサラリーマン連中とはしょっちゅうトラブルを引き起こしていたし、最後には専務という人を激怒させて童夢との取引は断絶という事態に陥り、現場にいた週刊プレイボーイの記者に記事にされて表沙汰になってしまったこともあった。

そのせいかも知れないし、そのころはTOM'Sがしきりにコンストラクターに憧れていて童夢の設計者を引き抜いたりしていたし、TOYOTAの中にはTOM'Sの意向にそって動いていた人もいるので、1986年のルマン直後、突然、TOYOTAから「童夢は車両の開発に専念すること」というお達しがありルマンへの参戦の道は閉ざされてしまった。

車両の開発に専念するということはやぶさかでは無かったが、どう考えても流れはTOM'Sに優位に展開していたし、肝心の開発に関しても、TOYOTAはトニー・サウスゲートを開発のアドバイザーとして契約するなど、違う方向に流れつつあることは確実だった。案の定、だんだん開発からも外れていくことになってきて蚊帳の外と言う雰囲気も濃厚になってきたので、私はその状況から離れて次の道を探る必要に迫られていた。
しかし、TOM'SがTOYOTAのワークス体制で戦っているルマンで、またもや借金まみれで惨めなレースをするのも御免こうむりたいので、しかたなく、あんまり好みではないフォーミュラ・レースに手を出すことになって、2001年に童夢S101でルマンに復帰するまで14年間はルマンから引き離されることとなった。

F3000では1994年にシリーズ・チャンピオンを獲得しF1のプロトタイプまで開発したが、その間も常にルマンのことは気にしていたしフォーミュラの開発で気を紛らわせていたというような状況が続いていた。

2000年になった頃、BMW V12LMPの空力改善の依頼が舞い込み、かなりの改善効果が得られたことから、そのBMWのオーナーと「日本製マシンと日本のチームによるルマン制覇」を実現しょうという話が盛り上がり、童夢が開発費を負担し、そのチームが完成車を2台購入してルマンに参戦すると言うプロジェクトがスタートした。
設計開発から2台の製作まで5.5億円くらいの予算規模だったが、2台は買ってもらえるので童夢の負担は3.5億円くらいだったと思う。
そして2001年に童夢S101が完成するが、運悪くチーム側のやむなき事情によりルマン参戦が難しくなり、2台の童夢S101は購入してもらったものの、実際のレース活動は海外の2流チームに委託せざるを得なくなった。童夢としては今までにない大金を投じて開発した車両なので、急遽、ワークスチームを結成して参加する事にした。2流チームと即席チームでは満足のいくパフォーマンスを引き出せなかったことは残念だったが、このプロジェクトのおかげでルマン復活が果たせる事になったのは事実なので、このチームには感謝している。

2001年のルマンでは、たまたまだが元童夢のF3000ドライバー(J)が#9の童夢S101のドライバーとして参加しており、いきなり自身のドライブで予選4位をゲットしたものだからS101に惚れ込んで、来期からのルマンでのレース活動を任せてほしいと申し入れてきた。
旧知の間柄でもあるし実力もよく知っていたので、童夢から車両を提供して、Jはレース参加に要する諸費用を負担すると言う役割分担でタイアップすることになった。

Jには全てのスポンサーに関する権利を与えたので、Jはその利ザヤで稼げると算段していたようだが、結局、Jの思惑通りのスポンサーは集まらなかった上に、契約外のFIA-SCC(ヨーロッパのスポーツカー選手権)にも参加を始めたために、後半においては全く財政面では破綻してしまい、資金不足でレース体制もますます脆弱になっていき、満足なレースも出来なくなっていたので、2005年に向けてはオール童夢での参戦を決意していたところ、旧友の田中慶治(JIM GAINER)から「自らのチームでルマンに参戦するのが夢だったから、片棒担がせろ」との申し出がきた。

2005年はレギュレーションの変わり目で車両の改造費にかなりの費用がかかりそうだったので資金の捻出方法に頭を悩ませていたところだったし、慶治なら気心も知れているので、Jとの契約は中断して、約4億円の予算を折半して、エントリーはJIM GAINERとすることでジョイントすることにした。
この年はダンロップを使うことにしたが、期待の新型タイヤは走行中にコードがプチプチと切れてしまうと言う欠陥タイヤで使い物にならず、あわててヨーロッパじゅうの旧型タイヤをかき集めてきたものだから、同セットに製造ロットの異なるタイヤが混じっていたり、予選からずっこけていたが、慶治たちとは楽しくルマンを満喫して、もちろん、お金にまつわるトラブルも無く、成績を度外視すれば、初めてと言えるほど清々しい終わり方をしたルマンとなった。

その少し前の2003年から2004年にかけて、日本のチームからもS101を貸してほしいと熱心な依頼があったので、車両と手持ちのスペアパーツは無償貸与するものの、レースに必要なスペアパーツは原価で買ってもらうという条件で貸与を承諾した。
しかし、振動の大きい無限エンジンを搭載していたためにJUDDでは発生したことがないサブフレームにクラックが入るなどのトラブルが発生しレースに支障を生じたという理由などでスペアパーツ代の支払いをかなり値切られた上に、スポンサーに対する成績不振のいい訳として、かなり童夢の車両や対応に不満を述べられていたようで、これも、好意で無償貸与し1円の利益も得ていないのにかかわらず、金銭的負担も含めて、かなり後味の悪い終わり方となってしまった。

2005年にかなりの資金を投入してしまった童夢は、2006年に関しては単独での参戦が難しくなっていたので、やむなくJの協力を得て参戦を続けざるを得なかったが、契約上はJがレース費用は負担することになっているものの、回収はほとんど期待できない形骸だけのものとなっており、事実上、ほとんどの部分を童夢が負担せざるを得ない状況となっていた。

2006~7年は、童夢もJもギリギリの予算で何とか参加を続けているという状況で、とても戦うと言えるほどの体制は構築できていなかったが、そのうちJはすっかりと童夢お抱えのワークスチームになった気分になっており、いかに自分が童夢に貢献してきたか、いかに童夢にとって必要な存在であるかを切々と訴え、挙句の果てに、支払いを約束したから供給してきたFIA-SCC用のスペアパーツ等の未払い金も童夢が負担すべきであるなどと言いだし、事実、かなりの借金を背負っているようなので、これ以上、続けさせることの方が問題が大きいと判断して契約を解除することにしたが、Jからは、利用だけして捨てられたように言われた上に、かなりの未収金が残ってしまうという後味の悪い終わり方となってしまった。

また、2007年には日本人がオーナー(K)のフランスのチームからS101を貸してほしいという熱烈なオファーがあったが、LMP2でのエントリーということだったので、LMP2のレギュレーションに合わせたり、違うエンジンに積み替えるための改造費用などが3000万円くらい発生することを通知し負担が大きいから断念するように説得していた。わざわざLMP2に改造する理由が謎だったが、Kは、当初はなかなか理由を話さなかったが、それとなく漏れ聞こえてくる話を総合すると、どこかでルノー・スポールにいたコンツッエンさんと知り合い(当時はメカクロームに移籍)、コンツッエンさんがメカクロームが買収したマーダーのエンジンを使ってLMP2の市販レーサーを作ろうとしていた話にしがみ付いて、その先行試験モデルを作ってルマンに出るという話をまとめにかかっていたという事だった。
それでも私は、そのGTしか走らせたことの無いチームがレーシングカーを違うクラスに大改造してルマンに参加するなんて不可能だと思っていたので拒否を続けていたが、Kは、コンツッエンさんという大物と知り合ったチャンスをどうしても活かしたいようで、かなり強引に私とコンツッエンさんをひき合わせた。コンツッエンさんは喜んで大歓迎してくれて、熱心に市販レーサーの夢を語ってくれたし共同開発を持ち掛けられ、その後、何回か協議を重ねたが、かなりの規模の話だったので躊躇している内に、とりあえずエンジンの開発を進めたいのでKにシャシーを出してやってほしいという事になり、断り切れなくなっていた。ヨーロッパのレース界の大物が、何で無理なプロジェクトに肩入れするのか解らなかったが、結果的に了承した。
案の定、思いつく限りのトラブルに見舞われて動かすのが精いっぱいと言う最悪の状態が続いていたが、それよりも、約束した3000万円と依頼されたスペアパーツの代金2000万円のうち、回収できたのは2000万円のみで、3000万円の支払が滞っていた。しかも、その支払われた2000万円の半分は、私の友達に「童夢に迷惑がかかるから」とか言って用立ててもらったお金で、それ以降は、いくら督促しても「近い内になんとか」の繰り返しでらちがあかない。
そのうち、車両を借りるだけであと3000万円を支払うのでは収支が合わないから、追加として1300万円を支払うから買い取りたいと言い出した。その上、あろうことか、売らないのなら既に支払った2000万円も返してもらうとのこと?? あまりに理不尽な言い分に、童夢社内の会議でもその言い分の理解に努めたが、結局、「訳がわからん??」で終わってしまった。
このチームとの折衝は鮒子田が担当していたから、私なんかよりもうんと粘り強く善良な解決を模索していたので、鮒子田はこの際、売却してでも回収しないと、売らないことを理由に一銭も支払わないだろうと判断して、4300万円の即時支払いを要求したが、それから延々数カ月、支払いは無く言い訳ばかりが続いたので、鮒子田は最終期限を設けてそれまでには払いがなければ車両を強制的に回収すると通知した。
もちろん、その期日が過ぎても支払いも無く車両も帰ってこなかったので鮒子田は督促を続けたが、逃げ回るばかりで解決の糸口さえも見つけることは出来なかった。
しかたなく、フランスの裁判所に提訴して差押えの手続きをとり、置き場所を探しまわって日本に持ち帰ったが、その間の裁判費用やヨーロッパで車両を探し回る費用や持ち帰るための輸送費など被害は甚大で、それだけでも頭にくるのに、ヨーロッパ中で、いかに童夢に迷惑をかけられてまともなレースが出来なかったかを吹聴しているらしく、未だに、一部からそのような誤解した内容の噂を聞くことがあるうえに、2008年にルマンのパドックで鮒子田がこのチームオーナーと出くわした時に「よくルマンに来られたものですね」と言われて、またもやみんなでその言葉の意味の理解に努めたが、結局、「訳がわからん??」で終わってしまった。
頼まれてS101を改造して、手持ちのスペアパーツを付けて貸してあげて、3000万円の未収金を残して、しかも車両も返してもらえずに、鮒子田が何回もヨーロッパに出かけてさんざん苦労して費用を投じて車両を回収してきたという経緯のどこからこの言葉が出たのか、いまだにさっぱりと解らないが、大損こいて後味悪い思いをするのはいつものパターンだ。

ルマン自体は興味あふれる自動車レースだが、そのやりくりにおいてなかなかすっきりとしない状況が続き、ルマンに参戦することに少し戸惑いが生じつつあった頃、私の究極の夢だった自動車メーカー(トヨタ)とのタイアップによるワークス体制でのルマン参戦という夢物語が実現する事になった。私にとっては、盆と正月と誕生日とクリスマスとハロウィンが同時にやってきた日に片思いの彼女からラブレターが届き10億円の宝くじが当たったような出来事だった。
トヨタの計画は2010年からの参戦だったので、童夢としては2010年をターゲットとした先行開発実験機という役割の全くのニューマシンの開発が始まったが、入れ込んでいた私は、童夢としては前代未聞の12億円を投入して(AUDIにとっては微々たるものだが)2010年に向けての計画的な開発を開始した。ドライバーも経験を積ませるために全員をルマン未経験なトヨタドライバーを採用するなど、世間の評価を恐れず準備に徹した。

レース結果は、ガソリンエンジン車のトップという目標にはわずか届かずに二番手に甘んじたが、まあ、予定通りでもあった。S102のポテンシャルの確認は出来たので、その後の改良によって飛躍的な性能向上の期待をもっていたところ、折からのリーマンショックのあおりを受けてトヨタは計画を中止してしまった。その後、TMGを中心に始動しているから、まあ、リーマンショックというよりも、そこには大人の事情があったのだろう。私もやる気をなくしてルマンからの撤退を宣言する。

しかし、2008年の童夢S102の走りを見ていたヨーロッパのレース関係者のS102への関心は高く、2009年のルマンへの不参加が噂となる頃、いろいろなヨーロッパのチームからS102を貸してほしいという問い合わせが来るようになった。
いままでの苦い経験からその種の話には耳を傾けないでいたが、中でも熱心にオファーを続けてきていたのがECO SPEEDという新興チームで、スタッフの中には旧知の人たちも参加しており、問い合わせたところ、内容的にも財政的にもしっかりとしているとの話だったので具体的な話を進めることにした。
ECO SPEEDの要望は、車両だけ貸してくれてスペアパーツだけ作ってほしいと言う話だったので、問題なく契約まで進み、いざ、依頼されていたスペアパーツの製作費用の支払い時期になったのに入金がない

入金を確認してからでないと製作に着手しないという事になっているのにかかわらず、これ以上、遅れてはレースにも間に合わなくなるというタイミングで、またもや何となく暗雲がたなびいてきたなと危惧していたら、言い訳として銀行の振り込み証明書がメールで送られてきた。それには、手続きの都合で入金まで数日を要すると書いてあったが、童夢のコンピューターで分析するに、その書類の銀行のサインは別のレイヤーを重ねてコピーしたもので捏造されたものであることが判明した。
こんなところとは付き合えないと中止を決意したとたん、ヨーロッパの知り合いからECO SPEEDが破綻して空中分解してしまったという情報がもたらされ、エントリーも締め切られたので、2009年に関しては全てが終わってしまった。

2010年に関しては、2008年からS102を貸してくれと頼まれていたモナコのアマチュア・ドライバーから、自分の所属するチームが大幅に体制を強化して、本格的にコンストラクターとしてもチームとしても事業として取り組むことになり、現在、テストコース付きの大規模なガレージを建設中であり、その開発部門とタイアップしてほしいという話とともに、2010年度のルマンに向けてS102の貸与も頼まれた。
このアマチュア・ドライバー自身が大金持ちで、自身の仕事の都合で頻繁に日本を訪れていたから、ここ1年半くらい親密な付き合いが続いていたし、私はとても彼を信頼していたので真剣にこの話を検討していたし、チームオーナーとも会い具体的な内容を煮詰めて契約書のドラフトを作成し、あとはサインするだけとなっていた。
2008年当時からかなり大幅にレギュレーションが変更されているので、S102はそれに合致させるためにリアカウル回りやリアウイングなどを作り替えなくてはならない。また、2008年のレースで雨中に何度もヒットしてかなりのスペアパーツを失っていたのでカウル類をはじめとする多くのパーツの製作が必要だった。

童夢は現状有姿のS102と保有する全てのスペアパーツやレース関係備品を無償貸与し、チームはレギュレーションに合致させるための改造費やスペアパーツの製作費約3800万円を負担して貸与することで合意したものの、その後、このアマチュア・ドライバーを介してのチームオーナーとの間で微細な契約内容についての調整が続き、なかなか契約書にサインする段階には至らなかった。
それでも、基本的に信頼している私は、その細かい修正要求さえも契約に真摯に取り組んでいる証くらいに思っていたから、チームの要求のままに、先行して新レギュレーション対策とかスペアパーツの製作を実施し、もう3800万円くらい使ったところで、チームからとんでもない要求が飛び出してきた。
当初より童夢からは、持ち込みドライバーは禁止、タイヤはミシュラン、エンジンはJUDDと制約していたのに、ヨーロッパからは盛んに持ち込みドライバーを探しているという噂が聞こえてくる上、童夢は車両を貸すだけだがチームはレースに参加するためには多大な費用が必要となるのだから不公平だとか、ルマンだけでは投下する投資が回収できないので何年間か使わせろとか、終いには最終的には車両はチームの所有となるようにすべきとか、ちょっと待ってくれ、童夢としては、貸してくれと言うから貸してあげるだけで、何も協力してルマンに参戦しようと言う話では無いのだから、これらの交渉は的外れであると突っぱねていたが、もう、ほとんどの改造を終えてスペアパーツの製作も進行している現状で、童夢はもうかなり金を使っているから後には引けないだろうから、かなりのごり押しはきくはずだという、足下を見られているような不愉快な気持ちと不安が広がっていった。
しかし、チームの要求を全て突っぱねたからこれで破談かなと思っていたら、これでは埒があかないからと、急遽、そのチームオーナーが来日してし話し合う事になった。
このチームオーナーはヨーロッパ全域で手広く商業施設を展開している有名な実業家だが、その彼が中1日の滞在で童夢との交渉のためだけに来日すると言うのだから、その前向きな姿勢と無理なごり押しのギャップがよく解らなかったが、少なくとも真剣に考えているであろうことは解ったので米原でまる1日ミーティングを持つことになった。
仲介しているアマチュア・ドライバーとチームオーナーとの違いは、アマチュア・ドライバーは単なる童夢のファンで何が何でも自らの手でS102を走らせたいだけであり、チームオーナーは、アマチュアに毛が生えた程度の振興チームでありながら、自らのチームに大変な自信を持っており、我々の力でS102を勝たせてやるのだから童夢はもっと大規模な支援をすべきであるという埋まらないほどのギャップがあり、いままで2人でどんな話し合いをしていたのだと言うほどスタンスが異なっていた。
ミーティング中にも、チームオーナーからはいろいろと細かい要求が次々と飛び出してきて、私は何度も机をひっくり返しそうになりながらも、深層心理的にはS102がルマンを走るところを見たいと言う気持ちが強いのと、年の功なのか年老いたのか知らないが、童夢からのエンジニアの無償派遣を15日から1ヶ月に伸ばすとか、粘り強く細かい契約内容の調整を続け、最終的には、約1300万円の補充スペアパーツの費用も童夢が負担することを了承して、夕方にやっと握手して記念写真を撮った。
契約書は大幅に変更されたので書き直してから後日サインすることになったが、後日、最終的な契約書をもってやってきたアマチュア・ドライバーの口から驚くべき言葉が飛び出してきた。
いわく、タイヤはミシュランではなくダンロップにしたい、S102は現状有姿と言っていたがギア、ブレーキ、ドライブシャフトなどを全て新品にしたトップコンディションで渡すべきだとか、何を今更と言う話が飛び出してきて、これらの案件を聞き入れてもらえないとチームオーナーは契約できないと言っているとのこと。
このときばかりは、私は躊躇なく机をひっくり返した。
その後、このアマチュア・ドライバーは私の飲んでいた京都のお茶屋にまで追いかけてきて、ワンマンなチームオーナーとの間でいかにつらい立場であったかを切々と訴え、何度も謝ってくれたし、関係修復にも努力していたようだが、私はそれ以来、一切の連絡を拒否している。

ただし、一つ困ったことがあった。このチームオーナーは他にLMP2で2カーエントリーしているので、これ以上の台数のエントリーは受け付けられないと予想されるので、童夢のチーム名でエントリーだけしてほしいと頼まれていたから、エントリー名が童夢になっている。
つまり、ほとんどの事情を知らない人たちからは、童夢がエントリーしたのに都合で参加できなかったと思われるだろうし、童夢の信用問題にもかかわる。S102も参戦できるコンディションで遠征を待っている状況だし、当然、何とか出来ないものだろうかと頭の中ではあれやこれやと策がめぐるが決定打がない。

ここで、一体、童夢のようなプライベート・チームがルマンに挑戦するためにはどれくらいの予算が必要か、ざっくりとしたところを明かしておこう。
S101の開発費は約5.5億円(2台の製作費を含む)、S101hbやS101.5への改造費は約1億円、S102の開発費は約10億円(1台の製作費を含む)というところだ(童夢の社内工数費や内作費は含まない)。
Ready to Raceの車両があっての日本からルマンへの参加費用は、AUDIのようにサーキット内に専用ホテルまで建設してしまうチームもあるから、それこそピンからキリだが、童夢の場合は、当然、常にキリだ。
童夢の場合、概ね1.5~2億円くらいの予算規模だが、主として事前のテスト回数によって大きく異なる。以下は、2010年、S102をルマンに参戦させるための必要最小限の予算表だが、ほとんどテストは無しのぶっつけ本番であり、たぶんこれではレースにもならないだろう。

S102開発費 約10億円 2008年度予算
改造費 2800万円 変更になった レギュレーション対策
スペアパーツ製作費 1300万円 不足分のみ
エントリー費 /ガスデポジット 750万円
エンジン/タイヤ 6000万円 少しのテストとルマンのみ
ドライバー経費 300万円 ギャラは別途
事前テスト経費 1800万円 国内で1回のみ
現地設備設営費 1000万円 器材置場と 小規模なホスピブース
輸送費 1600万円 往路空輸帰路船便
人件費/旅費交通費 2500万円 社内人件費を除く外注費
レース諸経費 700万円
合 計 1億8750万円  

これはほぼ、何とかレースに参加出来るという最低限のレベルの予算であり、事前テストも1回しかできないし、ドライバーのギャラも計算には入っていないし、帰りは船便というお粗末な内容だから、これ以上、削れるところも無い。
そこそこ満足できるレースを行うには、レースに参加するだけでも、最低でも3億円くらいの予算が必要であることはお解りいただけると思うが、それ以前に、何回かのテストと改良のプロセスがないと成長しないのだから、それにも数億円の予算は必要だ。

基本的に童夢の本質はレーシングカー・コンストラクターにあるし、自社のレーシングカーを自らが走らせることへのこだわりは全く無い。単に、適当なパートナーが見つからない場合に自ら走らせているだけであり、理想的には、童夢が開発したレーシングカーで専門のチームがレースを戦うという分業が好ましいと考えている。
しかし本稿で暴露しているように、これだけチームとのトラブルが続くと消極的にもなるし、スポンサー活動も性に合わないし、スポンサー頼りのレース活動には否定的だし、お金持ちにお金を恵んでもらってまでやりたくないし、そうなると全て自腹でやるしかない訳だが、今までの経緯をつらつら考えるに、それはそれで非常に空しいものを感じざるを得ない。

もともと、チームとのトラブルの原因は、童夢は大切な車両を貸してあげると言うスタンスだし、チーム側としては、最初はただで借りられればラッキーと思っていたら、この種の車両を走らせるには予想外の費用が必要なことが明らかになるにつれて、貸していただくという話が走らせてあげるというスタンスに変わっていって、両者のギャップが大きくなって不愉快な結果に終わるというパターンであり、つまり、車両を貸してあげるだけでは価値がないということに他ならない。 また、これだけ莫大な自費を投入し続けないとルマン挑戦が維持できないということは、何年続けていても社会的にも無価値だから、童夢という日本のルマン・チャレンジャーをルマンに送りこむという力というかエネルギーがどこからも湧いてこない。
と言うことは、童夢がルマン挑戦を断念しても誰にも迷惑をかける訳でもないし話題にさえもならないということだ。
昔はそんな事を考えたことも無かったし、いつもそうだったから、それは一向に構わないし疑問に感じたことも無いのだが、もう還暦もはるか昔の話となった老い先短い私としては、単なる自己満足だけでは満たされなくなっているし、どうせお金を投じるならば、求められることや意義あることに使いたいと考えるようになりつつあるところに、今回のチームとのトラブルは、信頼していただけにショックも大きく、気持ちの中で、ルマンへの情熱が急激に冷めていくのを感じていた。

結論的に、童夢は2010年のルマン参戦は断念する事になるが、前述したように、元々のトヨタとの計画は破綻しているのだから私の心は折れている。多分、ここから立ち上がるだけの情熱も気力も残っていないだろう。ルマンは、はるか遠い地の果てになっている。

林 みのる

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