企画資料室

「企画書」好きです。好きと言うよりは、何かを思い付いた時は、他人への伝え方としても記録としても、客観的に見直すためにも、まず「企画書」を作成します。もう何百の「企画書」を作成したかも覚えていません。自動車メーカー等の相手先があるので公表できないものも多くありますし、今、読み返すと滑稽な駄作もありますから、当たり障りの無いところをお披露目しておきます。

08 Dec.2009
「WHAT’S JMIA MONOCOQUE」―UOVAについてー
きっかけは、コストを理由にJAF-F4が旧態依然なアルミ・モノコックしか使えない規則になっていましたが、安全性能の向上にはカーボン・モノコックの導入が必至でしたから、童夢では、特殊な製法でアルミ・モノコックと同等の価格で販売できる画期的なUOVAモノコックを開発しました。しかし、この発明と言っても過言ではない新製品も、レーシングカーを作らない日本のレース界にとっては価値を認めてもらえずに埃をかぶっています。
31 Mar.1994
「ポストF3000を考える会」―F3000の次の提案―
日本のトップ・フォーミュラの行方が定まらずに迷走を続けていた頃、当時から、日本の自動車レースの発展振興にはレース産業と技術の発達が必要不可欠と主張していた私と無限の本田博俊氏とで、カーボン・モノコックやギアボックスなどの個人で開発が困難な部品だけワンメイク供給して、その他は各自で開発するという新しいトップ・フォーミュラの形を提案しましたが、フォーミュラ・ニッポンという名前だけ使われて、相変わらず輸入車一辺倒が続くことになりました。
「30年前の未来」(1997)―ホンダへのF1提案―
当時、F1シャシーを開発し、無限のエンジンの提供を受けてテストを重ねていた童夢に、自称、川本さんと親しいというホンダの社員から「川本さんが無限と童夢の計画に興味があると言っているから、至急、内容を説明できる文書を出せ」と言ってきたので、山口正己に手伝ってもらって1週間で作成した企画書。全ての予算が明記されている珍しい内容ですが、返事はありませんでした。
「Black Buffalo」(1985)-カーボンバイク発表―
これはCFRP開発の基礎実験用の習作として、小さい→費用が掛からない、という観点から開発に着手したレーシング・バイクですが、出来てしまえば、当然、レースに出します。この年の鈴鹿8耐に参戦しています。ここから童夢のカーボン事業がスタートしました。
「DESIGN FOR FORMULA20 RACE」(2009)-DIYレーシングカー-
レーシングカーを手作りする事をテーマにした新しい形の自動車レースの提案。規制されるのは外形寸法と20mmというリストリクター径だけと言う自由度の高いレギュレーションのもと自由な発想のクルマ作りをめざしていたが、状況の変化により、同じくオリジナル・マシンの開発が可能なJAF-F4に注力することになる。
25 Oct.2009
「Let’s F4」―JAF-F4へのお誘い―
JMIAが発足して直ちに着手したのがオリジナル・レーシングカーが戦える新しいカテゴリーの創設でした。その為に「F20」という新しいレースを実現すべく注力していたところ、従来より独自車両の投入が可能だったJAF-F4にカーボン・モノコックの使用が認められることになりましたので、新たに「F20」を立ち上げる必要が無くなり、JMIAとしても共有部品を充実させるなどのバックアップを充実させて、JAF-F4の発展に注力することにしました。
09 Jan.2009
「FCJ NEXT STAGE」―FCJへの最初の提案―
FCJの構想は童夢がホンダに「フォーミュラ・ドラゴン」の提案をしたことから始まっていますが、シャシーが外国製になってしまったので、入れ替え時期の2009年になって、再度、国産化への提案をしています。無視されていますが。
19 Oct.2010
「FCJ NEXT STAGE 2」―FCJへの提案―
「FCJ NEXT STAGE」では、国産シャシーの導入などを提案していましたが、FCJもそれどころではないようで、予定調和のように幕引きの話などが出てきていましたから、既存のJAF-F4のシートを確保して継続するという救済策の提案をしてあげました。
09 May 2011
「FCJ NEXT STAGE 3」―FCJへの提案―
JRPからは無視されてきましたが、トヨタ、ホンダからはポストFCJに関するJMIAからの提案について問い合わせがあり、結果的に、トヨタ、ホンダは「FCJ NEXT STAGE 3」での提案に近い形でJAF-F4を利用する事になります。落としどころはこれしか無かったのに、それでも無視し続けてきたJRPの無為無策か、単にJMIA(童夢)が嫌いだったのか知りませんが、何とも無責任な話です。
30 Jun.2011
「FORMULA NIPPON NEXT STAGE」―JRPを挑発―
シャシーの国産化云々の話はさておき、日本の自動車レースの発展振興というもっと根本的な問題について、JMIAとJRPとで、対等の立場で協議しませんか? という提案をしましたが、もちろん無視されています。
21 Jul.2009
「FNの未来」―FNへの提案―
低迷を続けるFN関係者の間で起死回生の手段や幕引きのタイミング等が囁かれていた頃、1994年に提案した、主要部品をワンメイク供給して、その他は自由に製作するという開発型F3000レースを再提案しました。もちろん無視。
06 JUN.2008
「JLMSの復活について」―ジャパン・ルマンの復活―
中途半端な形で中途半端な人間がACOと繋がり「ジャパン・ルマン・チャレンジ」を開催しましたが2年間で終わってしまったので、ACOが中国を中心とした計画に変えようとしていました。それは困ると、日本中心の開催継続を訴えた提案書です。その後の大混乱は2007~2008「浮いては消えた幻のジャパン・ルマン」―日本のルマンが消えた日―を参照してください。
08 Sep.2010
「JMIA KIT RACER」―KIT RACERの提案―
何とかレーシングカー作りを身近なものにしたいと願うJMIAからは、手を変え品を変えて様々な提案を繰り返してきましたが、どうも、基本的に興味を持つ人が少ないようで、常に計画倒れとなっています。
08 Sep.2010
「JMIA KIT RACER」―KIT RACERの提案―
海外向け 日本語版
10 Nov.2009
「JMIA MONOCOQUE UOVAの特性と安全性について」―安全性PR―
UOVAをJAF-F4に導入する時に、レース界の一部から安全性についての的外れな疑問が囁かれていましたので、安全性を説明する資料を作成しました。安全性を疑問視する人たちが使っているのが旧態依然なアルミモノコックですから、土台、時代錯誤な話でした。
01 Nov.2011
「K-4 RACING」―軽四輪レーサー―
軽四輪の市販車を改造したレーシングカーの提案です。全国に小規模なサーキットが数多く点在していますから、最も手軽に自動車レースが楽しめるカテゴリーとして提案しています。本書に具体的な構想を添付して自動車メーカーにバックアップをお願いしていますが、結果を思い出せないほど無反応でした。
21 Oct.2011
「日本の自動車レースの夢を語ろう」―提案総集編―
2007年にGTAの改革を柱に日本の自動車レースを根本から改革しようとした試みは突発事態により崩壊しましたが、その後も何も変わらないまま何も変わらないレースが続いていましたから、今までの提言をまとめて、日本の自動車レースをもう少し発展振興させようよと呼びかけています。
27 Feb.2012
「自動車レースの安全性向上を支援してください」―クラッシュ・テスト―
日本のレース界が、レーシングカーの安全性に無関心な理由を考えるに、実際にクラッシュした状況を見た人が少ないことも一つの原因だと思っています。また、安全性の向上には実験設備が不可欠です。その為に、昔、TAKATAが使っていた旧式の実験設備が放置されていたので、童夢が復元するから貸してほしいというお願いです。検討していただきましたが、駐車場への転用が決まっていたので無理でした。
「REAL RACE ①〜③」(2008~) ―日本自動車レース工業会会報―
日本のレース界が、レーシングカーの安全性に無関心な理由を考えるに、実際にクラッシュした状況を見た人 2008年の発足当時より、頑張って会報を作っていましたが、その内に内紛が勃発したり事務局がややこしくなったりでテンション下がり、あえなく3号で終わりましたが、その後も、会員への詳細な報告は続けています。
「日本自動車レース工業会」(2008)―JMIAのご案内―
入会を検討する企業へJMIAを紹介するパンフレットです。ここで「自動車レースは自動車の戦いである」ことを理念とすると謳っていますから、今までの日本のレース界とは一線を画した取り組みであることは解ると思いますが、レーシングカーを作らない国のレース工業会は、テレビの無い国のテレビ局のように、やや空回りが続き、結果的に、入門フォーミュラの部会のようになって、それでも延々と続いています。
29 Apr.2010
「MOTHER CHASSIS for GT300 1」―マザー・シャシーの提案―
FIA-GT3の浸食激しいGT300の防波堤としてのマザー・シャシーの提案でしたが、基本構想としては、FIA-GT3の性能を制限して安いマザー・シャシーの普及を図ろうとしていたのに、GTAがFIAに気を遣って性能調整できなかったので、結局、FIA-GT3と同等の性能を要求されることになり、同等の性能なら同等の価格となるのは必然なのでメリットが無くなり普及には至りませんでした。
27 Jun.2002
「SPORTSCAR RACING IN THE WORLD」―メーカー向け資料―
この年、ちょっと地方のさる自動車メーカーから、スポーツカー・レースへの復帰を考え始めているが、誰も最近の事情を知らないので、ざっくりとした解説をお願いしたいという要望が来ました。童夢も2001年からルマン復帰を果たしたとこだったので、エンジンでジョイント出来たら面白いと、さっそく資料をまとめ、メーカーまで持って行って説明しましたが、そこから返ってくる質問などが致命的に低レベルで、このメーカーはルマンに行ってはダメだと思ったものです。
「ねえ、作ろうよ!ぼくらのスーパー・キット・カー」(1988)
―ミニ四駆的レーシングカーー
私は長年に亘り、個人で開発の難しい部品は標準部品として用意しておいて、その他の部分を独自に開発してオリジナリティの高いスポーツカーやレーシングカーを作るというビジネスモデルの提案を続けてきましたが、これは、クルマ作りのハードルを下げてスタートを容易にするという目論見によるものです。
「WE WIN GOLD MEDAL!」(1993)―ボブスレー開発ー
これは1993年に「日本ボブスレー・リュージュ連盟」が制作した企画書ですが、「こういうの不得意なので」と言われて下書きは私がしています。連盟から熱心に口説かれて片棒を担ぐことになりましたが、費用を投じて先行的に海外でのテストなどを進めていたところ、突然に連盟と連絡が取れなくなり、数百万円の売掛と共に消えてしまいました。急に「スキー連盟」に吸収されて「日本ボブスレー・リュージュ連盟」は消滅したとの事。「スキー連盟」には以前の事は知らんと言われて未収金だけが残りました。
29 JUL. 1997 「ポスト フォーミュラ・ニッポン企画資料」 ―FN提案書―
この頃、既に国際F3000はワンメイクに移行していましたから、今までのように複数のメーカーのシャシーが入手できる状況は無くなりつつあるのに、明確なビジョンを持たないJRPはレギュレーションもシャシーも決められないまま迷走を続けていました。そこで、飽きもせず国産シャシーの導入を提案しましたが、もちろん何のリアクションもありませんでした。
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