COLUMN / ESSAY

「浮いては消えた幻のジャパン・ルマン」 ―日本のルマンが消えた日―

「童夢から」の一節を転載。

2006年、外車のワンメイク・レースなどを主宰していたチューニング・ショップを経営するU氏が、チーム郷のスタッフに加入したことをきっかけにACO(ルマン主催団体)との接点が出来たことから、郷さんの後ろ盾を得る形でACOの公認を取り付け「Japan Le Mans Challenge(JLMC)」をスタートした。シリーズ優勝者はルマンへのエントリー権が得られた。
2007年も開催されたが、その後、郷さんとU氏の関係が希薄になったり、もともと国内の主要レース関係者との接点も浅かったので、日本のレース界からは違和感をもって見られていたような状況もあり、寂しいレースとなっていた。
私は遠からず破綻すると見越していたが、日本でのルマン開催は継続してほしかったから、破綻する前に開催継続の道筋をつけておこうと各方面に根回しを始めていた時、U氏が突然にギブアップを発表して終わってしまった。
その直後、収拾に困ったACOより継続について相談したいと言ってきたので会うことになったので、日本を中心とした開催方法について提案し彼らも耳を傾けていたが、約1ヶ月後に会った時には態度は急変しており、突然に、中国での開催をメインとして、ついでに日本での開催を企画しているという話になっていた。 たぶん、中国でよほど美味しい話をされたのだろうが、いわく、「2008年に上海で開催し、2009年に上海と日本で各1戦開催」を希望し、日本での開催について適正な主催者を紹介してほしいという事だった。
アジアでのルマン開催についての意見も求められたので、私は、本格的に日本に根付いてほしいと思っていたので、「日本にはジャパン・ルマンへの参戦予備軍は少なからず居ると思うが、年間1戦では1億を超える投資はできない。最低でも3戦開催しないと参加者の確保は難しい」と主張したが、中国でハニートラップに引っかかったのか、よほどU氏の失敗に懲りたのかは知らないが、「二度と失敗はできないから1戦開催からスタートしたい」と検討の余地もない様子だった。
とにかく、ACOが第一候補とする富士スピードウェイに連絡してトップ3との面会をセッティングしたが、全員が、まるで押し売りを断るような対応に終始したために、気分を害したACOのメンバーは、その後、銀座に飲みに行くという私についてきて、「自動車メーカーから、こんな扱いを受けたのは初めてだ」と、いたくプライドを傷つけられたようでやけ酒をあおっていたが、支払いは私だ!しかも、それがいかに高額なものであるかを彼らは知らない。
2008年になって、ACOが童夢S102のレギュレーション・チェックに来た時に、「富士SWでの開催が決まった」と聞いたが、富士SWに確認すると「コースを貸すだけだ」との回答で詳細がつかめなかった。
その時の話によると、ルマン開催に際し中国が15億円を拠出するので、その資金で中国に送られるAUDI、Peugeutを筆頭にした10台以上のマシンを、ついでに富士SWに回すという構想らしいが、ACOには、過去の例からしても、中国の話は、ほぼ雲散霧消するのが通例だから信じるべきではないと言ったら「政府高官との話だから普通の話とは違う」と、えらく自信満々だった。中国の話はいつも政府高官との話なのだが。
どうしても複数回の開催を望んでいた私は、ACOの副会長のPatrick DEBROTに、他の2戦を我々がシリーズ・イベントとして別途に開催できるように手配するから、計3戦にして定着を図ろうと持ちかけたところ、Patrick DEBROTは、何と、「ルマンと同じレギュレーションなら知的所有権の侵害である」また、「同じマシンが走るレースを開催するというのなら、それはコンペティターということになるから、童夢のルマンへの参加は保証できない」ときた。
ジャパン・ルマンを日本に定着させるために協力しようと言うのに何をか言わんやの対応だ。私も同席していた鮒子田も話を続ける気力も失って席を立ち、以後の交渉を放棄した。
その後はしばらく放ってあったが、しばらくして、あの「ミスター・ルマン」をトップにACOジャパンを設立して、日本でのルマンをコントロールするという話が伝わってきた。
2008年の4月ごろだったか、またACOから連絡があり、Patrick DEBROTが、いろいろあって更迭されたので、今までの事は水に流して、再度、日本での開催に関して相談したいと言われた。しかし、相談なら「ミスター・ルマン」にすれば良いじゃないかと言うと、「ミスター林の言っていたいろいろなアイデアに興味がある」という事なので、6月のルマンの時なら会うと答えると、ぜひお願いしたいということになった。
Jean-Claude PLASSART会長は、フランス最大のスーパーマーケット「CARREFOUR」の会長を務めていた人で、ビジネスライクな話が出来る人と評判は悪くなかった。 そこで私は、今までの経緯を踏まえた、今後の正しい戦略を述べた「JLMSの復活について(2008/06)」という提案書をもって面会。
しかし、内容への理解は示したものの、「直ぐには無理だ」「様子を見たい」等と、特に新しい展開には至らなかった。
2008年のルマン後、案の定、上海はキャンセルとなったが、ACOは「事情があって延期となったが来年は大丈夫」と言い張っていた。
その後、富士SWが2009年11月にジャパン・ルマンのカレンダー申請をしたことを知ったが、富士SWの話では、相変わらず、ACOジャパンに場所貸しをするだけとのこと。また、その費用はACOが負担を約束しているとのこと。これは、私の感覚としては有り得ないことだ。ACOは営利団体ではなく単なる自動車クラブだから、こんな投機的なことはするはずがない。
そこで「ミスター・ルマン」に事情を聞くと、「実は、その費用に関しては私が銀行から借り入れして支払うつもり」とのこと。理由としては、個人的にリスクを負っても絶対に成功させたいという気持ちが強く、このチャンスを逃したらACOは日本での開催をあきらめて他の国にシフトする可能性が高いと判断しているとのこと。私は、もとより、この種のレースを個人の資力に頼って開催すべきではないと考えているし、富士SWに対しても事情を知りつつ責任から逃れているような印象を持っていたので、TOM’Sの大岩さんとともに、富士SWに事情聴取と真面な取り組みの依頼に行った。
対応してくれたトップ4に、「(私)富士SWが主催者としてカレンダーに掲載されているのはギミックだ。世間の人は富士SWが主催者だと誤解する、問題だ」というと、「(SW)ACOジャパンではJAFに申請できないので肩代わりしただけ」と答え、「(私)ACOが費用を負担することはあり得ない。ミスター・ルマンが個人で用意すると言っている。このようなビッグレースを個人の費用負担に頼るのは不健全である。富士SWが負担すべき」というと、「(SW)私たちはACOが支払うと聞いているので問題ないと解釈している」と答え、「(私)上海での開催の可能性は非常に低く、10台のマシンが富士に来る可能性は極めて低い。開催するのなら、何らかの対応策を講じておかないと悲惨な結果になり、又もやジャパン・ルマンを潰してしまうことになる」というと、「(SW)F1で余裕がない。ルマンは、あくまでも場所貸しに徹したい」とのこと。
私としては、このままジャパン・ルマンが潰れるのを見過ごせないので、富士SWに対して、いろいろ説得工作を続けていたが、何も変えることはできなかった。
そんな時、ACOの競技長のDaniel POISSENOTが来日し東京で会うことになり、資金の出所を問題視しているというと、「資金はすべてACOが出す」と言い切ったので、私は有り得ないと思ったが、ACO自身がそう断言するのだから信じるしかなく、ACO出資によるジャパン・ルマンの成功を祈るしかなかった。
私は、本当にACOが資金を出すというのなら、参加台数の問題もある程度は何とかするだろうし、それならお任せするしかないと思っていたから見ているしかなかったが、その後、又もやACOから連絡があり、Jean-Claude PLASSART会長が来日するので是非会いたいと連絡があった。
東京でJean-Claude PLASSART会長と競技長のDaniel POISSENOTと私と鮒子田との4人で会ったが、会長は、実のところ、中国での開催はトラブル続きで非常に心配している、また、ミスター・ルマンの資金問題も心配だと言う話を始めた。私は、「それはおかしい?私はすべてACOが負担すると聞いている」というと、会長は、「それはあり得ない。ACOは営利団体ではなく単なる自動車クラブだから、そういう機能は持っていない」との答え。「誰が言っていた?」と聞くから、「貴方の隣のDaniel POISSENOT氏から」と答えると、Daniel POISSENOTは早口のフランス語で会長に言い訳していたが、たぶん、「ミスター・ルマンにそう言えと頼まれた」と言っていたのではないだろうか。
会長からは「全てが行き詰っている。何とか助けてくれないだろうか?」と頼まれたが、「全て、今まで私が進言していた通りになっている。それなのに、事ここに至るまで放置しておいて、今さら手伝えない。今までの不手際で日本でのルマンの価値は大変に低下してしまった。申し訳ないが成す術は無い。また、今まで熱心に協力してきた我々に対して、知的財産の侵害とか、童夢のルマン参加を駆け引きに持ち出したり、資金問題で嘘までつくようなやり口は大変に不愉快だ!今後の協力は出来ない」と言い残して席を立った。
今から思えば「童夢は二度とルマンに来るな」と言われかねない断り方だったからヤバかったが、それからも参加しているから大丈夫だったのだろう。

当時、私が、ジャパン・ルマンが重要だと思っていた理由は、スーパーGTが未来永劫続くとは思っていなかったので、業界としては、次の布石を打っておくべきだと考えていたからであり、それには、現状ではルマンしか考えられなかったからだ。
もう少し詳しく説明すると、自動車メーカーにとってGT500は特殊なレギュレーションで発展性が無い、開発努力が性能調整で元の木阿弥になる、開発費が高すぎる、などり理由から忌避する傾向が強まっており、また、自動車メーカーとしては世界規模のFIA-GT3への関心が高まっているから、いずれ、スーパーGTはGT300、と言うよりはFIA-GT3のレースに様変わりしていくと予想している。
そうなると、ぐたぐたのスーパー・フォーミュラは問題外として、FIA-GT3が日本のトップ・レースでは情けないし、日本の自動車レースはますます弱体化してしまうから、今から、GT500を上回る次世代のトップ・カテゴリーを準備しておく必要があると考えていたからだ。
INDYやF1をみても解るように、本質的には、海外の有名レースを招聘したり開催権を獲得するには大枚の資金が必要なものだが、なぜか、ACOはJapan Le Mans Challengeの失地回復にやっきとなっており、非常に好条件の提案をしてきていたから千載一遇のチャンスといえた。
また、自動車メーカーが、F1からルマンに乗り換えつつあり、そうなれば、国内で走らせたくなるのは必至だから、必ず、次世代のトップ・カテゴリーになると思われた。 世界中にシャシーとエンジンが存在し、アマチュア・チームにも手が出しやすいし、この種の自由度の高いレースは、国内産業の発展振興にも大いに貢献するだろうし、ACOが進めるアジア・ルマン・シリーズが実現すれば、ジャパン・ルマンがその中核となり、日本の自動車レース界には大いにメリットとなるだろう。
と思っていたのは私と鮒子田と「ミスター・ルマン」だけだったようで、私や鮒子田が走り回っていた間の日本のレース界の人達の情報の希薄さと無関心さとビジョンの欠乏を見るにつけ、残ったのは徒労感だけだった。

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