WHAT’S 林みのる

林 みのる  1945年7月16日生まれ。

終戦直前、家族が、わざわざ何の被害も無かった京都から広島に疎開した時に生まれ、生後1ヶ月で原爆の閃光を浴びたために慌てて京都に逃げ帰った、ぎりぎり戦中派、ぎりぎり被爆者。
幼少の頃から物造りが大好きで、模型、ラジコン、オーディオ、バイクを経て、16歳からは車に没頭。眺めたり運転したりという趣味ではなく、車を造ることだけにしか興味が無かったから、湯水のように大金(当時としては)を浪費せざるを得ない波乱の青春期を送ってきました。
父親は画家だったから、基本的には跡を継がせたかったようで画材だけは何でも買ってくれましたが、八百屋じゃあるまいし、歌手や画家を継げと言われても、それは才能が決めることであり出来ない相談でした。

カラス(1965)
19歳の時に作った最初の改造レーシングカー

19歳の春、そのころ通い詰めていた鈴鹿サーキットで知り合った浮谷東次郎の依頼で HONDA S600を改造したレーシングカーを製作することになり、デビューレースで優勝したことをきっかけに「MACRANSA」というというレーシングカー・コンストラクターのはしりのようなチームを作り、

MACRANSA(1966)
HONDA S600をベースに作ったレーシングカー

活動を続けるものの、年々、高騰する開発費に押しつぶされてギブアップ。


岩倉

童夢宝ヶ池社屋
大ヒットとなったおもちゃのロイヤリティで建設

それからしばらくは放蕩三昧の生活を送っていましたが、2年も遊び呆けていた後、やはり車造りを諦めきれず、30歳を目前にした1975年の初旬に、またもや、資金も開発施設もスタッフも何もかも無いままにスポーツカー・メーカーを目指して「童夢」を創立。

おもちゃ

当時発売されたおもちゃ類

その頃、アルミ・ホイールが大ヒットして業績好調だった従兄の林将一が経営する「ハヤシ・レーシング」の協力を得ながら「童夢-零」を製作し、1978年の第48回ジュネーブ国際自動車ショーで

童夢-零(1978)
童夢としての最初の作品

発表したところ、大変に大きな反響があり、また、折からのラジコンブームでおもちゃが大ヒットし、多額のロイヤリティが転がり込んできました。

DOME ZERO-RL

DOME ZERO-RL

レーシングカーを造り続けて行き詰ったからスポーツカー・メーカーを目指したはずが、思わぬ大金を目にした途端、私は、直ちに「ルマン24時間レース」への挑戦を開始し、それから連続8年間ルマンへの参加を続けることになります。

DOME RC83

DOME RC83

しかし、いくら世界最高峰のスポーツカー・レースに挑戦を続けても、日本では、レーシングカー・コンストラクターという仕事に対するニーズに乏しく、私が夢に見ていたレーシングカー・コンストラクターとしての自立は難しかったのですが、それでもレーシングカーを造り続けたい私は、
TOYOTA DOME 86C

TOYOTA DOME 86C

主として、自動車メーカーからモーターショー・モデルや試作車などのデザインや開発を受託するカロツッエリア的な受託業務で稼いだ金をルマンにつぎ込むという変則的な形で、何とか、レーシングカーの開発を継続していました。

そんな頃、世界のレースの世界では、空力とカーボン・コンポジット技術が開発の中心となっていましたが、その頃はもう、ほぼすべてのレーシングカー・コンストラクターが消滅していたわが国では、そんな技術も設備もほとんど無かったので、仕方なく、社内に25%ムービングベルト風洞を建設したり、東レ/TOYOTA等の協力のもとに
25%ムービングベルト風洞

25%ムービングベルト風洞

カーボン・コンポジットの基礎研究から開始したり、ルマンでのコンペティターの世界標準に合わせるべく、孤高なる努力を続けました。
しかも当時、一歩先を行っていた欧米の技術をそのまま導入するのが予算的に難しかったのも事実ですが、気持ちの上では、技術を金で買うのが腹立たしい思いもあったので、両方とも基礎部分からの独自開発にこだわり続けた結果、カーボン・コンポジットに関しては先進の開発技術を持って事業化に成功しましたし、風洞に関しても、計測装置の販売を事業化するに至っています。

販売している童夢製風洞装置

販売している童夢製風洞装置

その間、本社は京都宝ヶ池から
童夢京都大原社屋(1988)

童夢京都大原社屋(1988)

大原三千院近くに移転、そして2001年には米原に50%ムービングベルト風洞「風流舎」を建設し、2004年にはカーボン・コンポジット製品の開発/製造専門子会社「童夢カーボン・マジック」を創立、同時に
風流舎

50%ムービングベルト風洞
風流舎(2001)

童夢の全機能を米原に
DOME RACING VILLAGE(2006)

童夢米原本社
DOME RACING
VILLAGE(2006)

集約した「DOME RACING VILLAGE」を建設しました。

近年は、HONDAのGTレース用レーシングカーの開発やレース活動を受託したり、
DOME S102.5

DOME S102.5(2012)

ルマンへの挑戦も18回を数えるなど、
HONDA HSV(2010~)

HONDA HSV-010GT
(2010~)

それなりのレース活動を続けていましたが、しかし、日本のレース界の、目に余るドライバー育成中心主義や日本の技術や産業をないがしろにする偏った施策に危機感を募らせて、「技術と産業を育成することによって日本の自動車レースの発展振興を図る」ことを理念とする「日本自動車レース工業会(JMIA)」を設立して初代会長に就任したものの、日本自動車レース工業会(JMIA)その努力が空回りするだけで報われることの無い現実に嫌気がさして、2012年、JMIAの会長も退任し、TOM‘S大岩氏に交代しました。

また、私は、童夢のチーフデザイナーでしたから自らの創造力の衰えは自覚していましたし、しがみつく気は毛頭なかったので、以前から「70になる前に引退する」と宣言していました。
ただし、黙って消え去るつもりは全く無かったので、最後に大輪の花を咲かせる稀有壮大なプロジェクトを計画していましたし、そのプロジェクトに専念するために、童夢の社長を退任し鮒子田 寛に預ける事にしました。
ところが、奇想天外なトラブル(May.01 2019 「ブラジャーVSレーシングカー副読本」を参照してください。)が発生したおかげで、その稀有壮大なプロジェクトの資金捻出を目的に子会社や風洞設備を東レやTOYOTAに売却した挙句に、その売却益のかなりの部分を、ちょうどその頃に離婚した元嫁にあくどい手口で収奪されてしまい、資産を奪われ夢を踏みにじられるという、大輪の花を咲かせるというよりは立ち枯れてしまったような悲惨な老後を迎える事になってしまいました。
その後、友人に譲渡を約束していた為に童夢も売却し、現在は、売却資金の管理会社である「童夢ホールディングス」のオーナーとなっています。
朝日と夕日くらいに違う老後となってしまいましたが、これも、身から出た錆、現在は元嫁に奪われた資産の奪還と元嫁の虚偽により棄損された名誉の回復に勤しむ日々を余儀なくされています。

林みのる