終戦直前、家族が、わざわざ何の被害も無かった京都から広島に疎開した時に生まれ、生後1ヶ月で原爆の閃光を浴びたために慌てて京都に逃げ帰った、ぎりぎり戦中派、ぎりぎり被爆者。
						カラス(1965) 19歳の時に作った最初の改造レーシングカー 19歳の春、通い詰めていた鈴鹿サーキットで知り合った浮谷東次郎の依頼で HONDA S600を改造したレーシングカーを製作することになり、デビューレースで優勝したことをきっかけにスポンサーのような人が現れて次作への道が開けます。そこから「MACRANSA」というというレーシングカー・コンストラクターのはしりのようなチームを作り「くさび」「PANIC」と製作しますが、土台、収入のあても無い浪費一方の趣味のようなものでしたから、年々、高騰する開発費に押しつぶされて、26歳になったころにギブアップします。
						MACRANSA(1966) HONDA S600をベースに作ったレーシングカー しかし、それまでも全く収入が無かった訳では無く、レーシングカーの開発資金を調達するために、いくつかの小さなビジネスを立ち上げていましたが、レーシングカー作りを止めた途端、出ていく金が無くなり経済的に余裕ができてきました。それまでのストイックな生活から解放された上、お金に余裕が出てきた訳ですから、26歳の私は手の平を返すように放蕩の世界にのめり込み、それから3年以上も遊び呆けていたでしょうか、すっかりと夜の京都では有名人になっていました。
						その頃、アルミ・ホイールが大ヒットして業績好調だった従兄の林将一が経営する「ハヤシ・レーシング」を母体として「童夢」がスタートし、東大阪の「ハヤシ・レーシング」の工場で「童夢-零」の製作がスタートします。
						童夢-零(1978) 童夢としての最初の作品 当時発売されたおもちゃ類 そのロイヤリティで京都に童夢の工場を建設した頃、やや経営に陰りが見えてきた「ハヤシ・レーシング」の立て直しに入ってきた元銀行の支店長の再建戦略から童夢は別組織となります。しかし、そのうちハヤシ・レーシングの経営状態が急激に悪化し共倒れの危機が迫りますが、童夢も童夢-零も捨てる気の無かった私は、父のつてで銀行から大借金をして童夢の社屋や童夢-零をハヤシ・レーシングから買い取り、私が代表者となる「株式会社 童夢」を設立することになります。
						宝ヶ池童夢本社屋 大ヒットとなったおもちゃのロイヤリティで建設 そんな頃、童夢のラジコンで儲けていたおもちゃ屋さんが、もう一車種ほしいから「前金を渡すから童夢-零のレーシングカーを作ってほしい」と言ってきました。つまり、ラジコンの為に本物のレーシングカーを作るという本末転倒な話でしたが、咄嗟に私は「童夢-零のレーシングカーではインパクトが無い。ルマンに挑戦しましょう」と言い、おもちゃ屋さんも「それは凄いですね!」ということになり、ルマンを目指すことになります。
						DOME ZERO-RL DOME RC83 TOYOTA DOME 86C それから連続8年間、ルマンへの挑戦が続くことになりますが、しかし、いくら世界最高峰のスポーツカー・レースに挑戦を続けても、日本では、レーシングカー・コンストラクターという仕事に対するニーズに乏しく、私が夢に見ていたレーシングカー・コンストラクターとしての自立は難しかったものの、小規模な技術集団が、ジュネーブ・ショーで脚光を浴びたり、ルマンと言う世界の舞台で活躍したりするのを見て、興味を持った自動車メーカーから、モーターショー・モデルや試作車などの試作やデザインや開発などの業務が舞い込むようになり、それらの仕事で稼いだ金をルマンにつぎ込むという変則的な形ながら、何とか、レーシングカーの開発を継続していました。
						童夢京都大原社屋(1988) 215坪から1600坪に そうしてルマンに挑戦を続けていると、世界のレース界では、空力とカーボン・コンポジット技術が開発の中心となりつつある事が分かってきますが、その頃はもう、ほぼすべてのレーシングカー・コンストラクターが消滅していたわが国では、そんな技術にも設備にも関心を示す人も自動車メーカーもありませんでしたから成す術がありませんでした。しかし、ここを乗り遅れたら世界のレベルには付いていけませんから、仕方なく、童夢で設計して社内に25%ムービングベルト風洞を自作したり、カーボン・コンポジットの基礎研究から開始したり、世界標準に合わせるべく孤高なる努力を続けました。
						25%ムービングベルト風洞 販売している童夢製風洞装置 そして2001年には米原に50%ムービングベルト風洞「風流舎」を建設し、カーボン・コンポジット製品の開発/製造専門子会社「童夢カーボン・マジック」を創立、2006年には、童夢の全機能を米原に集約して、「DOME RACING VILLAGE」を建設します。
						50%ムービングベルト風洞 風流舎(2001) DOME RACING VILLAGE 1600坪から1万坪に レース活動においては、1982年の「童夢 TOM’S セリカC」の開発をきっかけにトヨタのグループCカーの開発とレース活動を担当する事になり、1985~6年はTEAM TOYOTAとしてルマンにも挑戦しました。
						2015年に私は引退しますが、その時に開催した「童夢の終わりと始まり」というパーティのお土産に制作した「童夢の奇跡」という本を見ると、いつの間にこんなにたくさんのレーシングカーを作ったんだろう、いつの間にこんなにたくさんのレースに出たんだろうと、何か、他人の人生を見ているような不思議な気持ちになります。15 Apr. 2023「ブラジャーVSレーシングカー 2 -digest-」 を参照してください。10 Aug. 2022「童夢と林みのるの最後の夢」 を参照してください。
						このように、大輪の花を咲かせるどころか立ち枯れてしまったような悲惨な老後を迎える事になってしまいましたが、夢も資産も失った私は、その後、童夢を友人に譲渡し、現在は、売却資金の管理会社である「童夢ホールディングス」のオーナーとなって、一応、食うには困らない生活を営んでいますが、その後、再婚した妻が、私の反対を押し切って子供を作ってしまったので、現在(2022年)、喜寿の私に4歳と2歳の子供がいて、育児に追われるという異常な老後となっています。立ち枯れた老木の枝にロープを結んでブランコを作り、子供たちが無心に漕いでいますが、子供たちが落ちないように枯れた枝は必死に頑張っています。
						林みのる
				 
				
					[童夢と林みのる]  by 山口正己 
						私や童夢について、ざっくりと紹介しましたが、加えて、モーター・ジャーナリストの山口正己氏が、私の書いた「ブラジャーVSレーシングカー」で童夢と私を紹介する記事を書いてくれていますので紹介しておきます。
						
						この記事のテーマは、自動車業界を良く知らない人に「童夢」や「林みのる」を説明することにあるらしいが、私は業界の人間であり、「童夢」も「林みのる」も業界で誰でも知っている存在だ。そもそも今まで、そういう視点から林みのるという人を見たことがなく、どこから紹介すれば良いのか戸惑うが、私の認識している林みのるという人は、大方こんな人物だ。
						まず、幼少期の実家に運転手やお手伝いさんが居たという。第二次世界大戦直後のことである。ここからして私のようなただの庶民ではない。さらに、ご幼少の頃から只者ではない存在だったことは幼稚園に入園した日に早くも証明された。自分の言う事を聞かないばかりか、命令ばかりする先生に腹を立て、とてつもない事件(支柱が腐って倒れかけの幼稚園の塀を支えていた棒を外して回って倒してしまったらしい)を起こして即時退園になった伝説があるらしい。本人は覚えていないようだが、手伝わせた二軒隣の親友の親から接近禁止命令が出て、それ以来、会えなくなったし、生前のご母堂が、ことあるごとに愚痴をこぼしていたようだから本当だろう。(本ホームページで閲覧可能) 
						その、創業から現在までのサクセス・ストーリーも、ここでは語りつくせないので、自動車業界を良く知らない人にも興味を持っていただけるような話題を探してみた。
						なぜ、そんな事が可能だったのかと言えば、林には、独特の先見の明というか嗅覚があったからだ。1980年代に、いち早くカーボン・ファイバーに着目、大手繊維メーカーと組んでレーシングカーの車体への製品化を推進した。1987年には自動車メーカーでさえ所有するところが少なかった25%ムービングベルト風洞実験設備を独自に建設。2000年には、さらに進化させて東洋唯一の50%ムービングベルト風洞実験設備を独自に建設した。何から何まで、日本の自動車メーカーの一歩先を行く先進技術を導入し、後追いの自動車メーカーをクライアントとして成長拡大を続けてきたのだ。
						私は林みのるとは付き合いが長いものの、とても同じ視点でものを見ているとは思えないので解った風なことを言う気はないが、これらの猪突猛進のような生き様に計算があるとは思えない。ひたすら大好きなレーシングカーを作るためにはどうすれば良いかだけを考え抜いてきた結果が、ぶれない一直線の生き様となってまっすぐにゴールに向かわせたように見える。
						こうした中、失意のうちに引退を決意した林みのるは、その集大成とも言える童夢も子会社の童夢カーボン・マジックも風洞設備も大企業が譲渡を申し出ていた状況下、無借金経営を達成していたので、売却してすべてが林みのる個人の懐に入って豊かな老後を満喫するのかと思われていたが、そうはならなかった。林は、その売却益の総てを投じて、アジアをネットワークとするスポーツカーとレーシングカーの一大開発システムを構築しようとしていたのだ。
						その生き様は、しごく一直線でシンプルに見えながら、緻密な計算が成されているようにも見えるし、総てを日本の自動車レースの発展にささげてきたようにも思えるが、ひたすらレーシングカーを作りたいという利己的な欲望に向けて突っ走っていただけのようにも見える。どちらにしても、一般的な尺度では測り知れない想定外な人物、それが林みのるだ。
						そんな、いかにも林みのるらしい人生の最後に大輪の花を咲かせようとする気宇壮大なプロジェクトである「童夢と林の最後の夢」は、莫大な予算を捻出するために童夢関連の会社や設備を東レやトヨタに売却したことに乗じて、同時期に離婚に向かっていた元嫁氏の奇想天外な策略によって多くの売却益を奪われて破綻してしまう。15 Apr. 2023「ブラジャーVSレーシングカー 2 -digest-」 に概要が書かれているので参照していただきたい。
						
それにしても、この「童夢と林の最後の夢」が実現すれば、アジア一帯をネットワークするレーシングカーやスポーツカーの開発生産システムが確立されただろうし、何よりも、既に林みのるはシンボルとしてのスーパー・スポーツカーの開発を進めていたから、たぶん、世界中が「あっ」と驚くようなスポーツカーが誕生していたはずだ。見たくなかったか? 乗ってみたくなかったか? それが、最後の幕に手をかけた途端に元嫁氏の反乱という予期せぬ出来事によって頓挫してしまったと聞くにいたって、日本の自動車レース業界の失った希望というか損失の大きさに愕然としている。「童夢と林の最後の夢」については10 Aug. 2022「童夢と林みのるの最後の夢」 に概要を説明しているので参照していただきたい。
						モーター・ジャーナリスト  山口正己