COLUMN / ESSAY

「日本の自動車レースにおける産業革命論」―終焉における鎖国論―

私は、四半世紀に亘って日本のレース界に正しい道を説き続けてきましたが、時間とエネルギーと予算を浪費しただけで何も変えることが出来ませんでした。私の考え方が間違っているのかレース界の人たちの頭が悪いのかは知りませんが、これではいつまでもヨーロッパ製のレギュレーションとレーシングカーを押し付けられるだけのカモにしか過ぎませんから、こうなったら、鎖国して日本独自の自動車レースを構築しろという極論です。しかし、アメリカは同じ道を歩んで成功していますから、やってできない話ではありませんが、そんな英断ができる人が日本のレース界には居ません。

現状に満足している幸せな貴方は本書を読む必要なし

1963年に「第1回日本グランプリ自動車レース大会」が開催されて以来、57年(2020年現在)を経た現在においてさえ、我が国で、自動車レースが、これほど低迷を続けている現実を、努力の賜物だと思っている人、こんなものだと達観している人、諦めている人は、ここで終了だ。今後も密やかな趣味として楽しんでいただきたい。
いや、せめてGT等のビッグイベントくらいはTVで実況中継がないとおかしいだろう、5大新聞にレース結果くらいは掲載してほしい、プロドライバーが道を歩けばサインくらい求められたい、たまには「アナザースカイ」にドライバーが登場してほしい、日本のレース産業が無いとF1が成立しないと言われたい、レース関係の貿易収支を逆転させたい等、言い出したらキリも無いが、そのような希望の欠片でも持っている人は、ちょっと、この先を読んで頂きたい。

これは、刀折れ矢尽きた老兵の辞世の句だ

1965年から自動車レースの世界に足を踏み入れて以来、2015年に引退するまで半世紀に亘って日本の自動車レースの真っただ中に居て常に感じていた事は「つまらない」という思いだった。
それでも若いうちは改善に向けての意欲も持っていたし、チームとしてもコンストラクターとしても安定してきた1990年代から引退するまでの四半世紀の間、ある種の使命感を持って、繰り返し繰り返し、日本の自動車レースの発展振興についての提言を続けてきた。しかし、そこに私利私欲も我田引水も無かったのにかかわらず、レース界から聞こえてくる声と言えば、「また自分とこだけ儲けようと思って」というやっかみのような声ばかりだったから、大きな志も夢も希望も、途端に物売りのセールストークのように色褪せてしまい、いつしか私は目を背けるようになっていって引退を決意するに至る。しかし、ただ逃げるのではなく、最後にレース界に大きな置き土産を用意していたのに、思いもかけない事件の勃発により頓挫してしまう。
ともあれ、現在の私は、天下の素浪人であり隠居老人であり、童夢とも完全に縁が切れていて現在の社長も全く知らないくらい無縁だから、決して「また自分とこだけ儲けようと思って」意見を述べている訳ではない事だけはご理解いただきたい。
いずれにしても、四半世紀に亘る心の叫びが全く伝わらなかった日本のレース界の人たちに聞く耳は無いと思うが、まあ、遺言書か辞世の句くらいのつもりでお目通しいただければ幸いだ。

日本の自動車レースの構造

現状、その全てを自動車メーカーから下賜される資金に頼る日本の自動車レース界の経済構造では、イコール、日本の自動車レースの規模は自動車メーカーの出す金によって決まっている。
いわば、自動車メーカーに縋って成り立っている世界と言えるが、そのレース業界の人達の目標と言えば、その飼い主である自動車メーカーとのパイプを確立して安定的な仕事にありつくことだから、双六で言えば、そこで「上り」であり、それから先の事を考えている人は誰も居ない。ある意味、箱庭のような世界観で安定的に持続されている。
そんな日本の自動車レースの構造から鑑みるに、自動車レースを発展振興させるということは、つまり、自動車メーカーが自動車レースに使うお金を倍増すれば日本の自動車レースの規模は倍になる。それだけのことだ。

箱庭の世界観

レース界の人達は、口を開くと「もっとメジャーに」と言うものの、続く言葉が「若手ドライバーの育成」と言う念仏しかなく、唱え続ければ極楽浄土に行けると信じ続けている新興宗教の信者のような人達だが、問題は、その刹那的で短絡的で視野の狭い利己的なアイデアしか持たない信者たちの「若手ドライバーの育成」と言う念仏は、本来は、自動車レースそのものの社会的価値が向上してこそ意義を持つのであり、その育てたドライバーがリタイアすると、決まって「若手ドライバーの育成」を言い出す輪廻が続く限り、ドライバーのドライバーによるドライバーのためのレースに過ぎず、そこに発展も進歩も生まれてこない。
最悪なのは、この箱庭の金を取りあっている「若手ドライバーの育成」教の信者たちにとっては、結果的に、日本の自動車レースの発展振興や自らの社会的ステイタスを向上させる礎となるはずのレーシングカーの開発技術やレース産業の発展への努力や投資を「若手ドライバーの育成」の為の予算を削られる我が身を脅かすライバルのように受け止める浅はかな思考回路にあり、そこに、本質的には不必要な対立関係が芽生えてしまい、素人ゆえにドライバーの意見しか理解できない自動車メーカー担当者と共に、日本のレーシングカー開発技術と産業の発展振興を妨げる大きな壁となってきた事だ。

金は「もらう」より「稼ぐ」ほうが良い!

今までの長きに亘って金を出し続けてくれている自動車メーカーというパトロンからの施しはありがたく受けるとしても、それ以上を望むなら自ら稼ぐしかない。レース界の人は、ここで無理だとめげてしまうが、通常、どの業界も自ら稼いで生きているのであり、レース界のように、自動車メーカーに「ドライバー育成」等の生産性の乏しい企画を持ち込んでは糊口をしのいでいるだけでは、詰まるところ、仲間内で自動車メーカーの限られた予算を分け合っているに過ぎず、これでは、いつまでも業界の規模は変わりようもない。つまり「外部からの資金の導入を図る」という気概を持たない限り、日本のレース界は、何時まで経っても同じサイズの箱庭の中で展開される陣取り合戦の域を出られない訳だが、では、この箱庭を飛び出すには、どんな方法が有るのだろう。

どうして稼ぐのか?

そうは言うものの、新しい事業を起こすことは本当に難しい。一つの成功例の陰に何百もの失敗が埋もれている。特に、現在の箱庭の住民にはとても無理だから、今は考えないでおこう。
では、どうして豊かにするのかと言えば、前述したように、日本のレース界には源泉があるのに垂れ流されているから、それを堰き止めるたけで箱庭に温泉ができて暮らしは豊かになるだろう。
つまり、現状、日本のレース界という箱庭から外部に流出している資金を堰き止めて日本のレース界で処理できる体制を築けば、その資金はレース界の中に留まり還流して、いずれ溢れてくるはずだ。
もう言い飽きたが、現状、日本のレース界の資金の流出の最たるものは外国製レーシングカーの購入であり、自動車メーカーがレーシングカーの開発やレース活動で海外に流出させる資金だ。

敗者の論理

私がこう言うと、必ず「外国製が優れているから仕方がない」とか「直ぐに勝たなくてはならないから」というような反論が返ってくるが、決して劣っていないし、何よりも、その理論が正しいのであれば、今後も外国のコンストラクターに貢ぎ続けて彼らの技術力の向上を助けて経験を積ませて企業規模も大きくしてやることになるのだから、その格差はますます広がる一方であり、つまり、未来永劫、日本のレース界は外国のレギュレーションに準じて外国のレーシングカーを買い続けてドライバーだけが競い合う現状から脱却は出来ない事になる。
戦後、海外ブランドを買いあさり、中国製の安物を買い続けてきた日本が、GAFAに後れを取り中国にGNPで抜かれ有力企業がどんどん外国に買われていく現状を、まるで他人事のように眺めていられる心理状態が歯がゆいが、原因は単純に「勝負」を捨てている事に外ならないし、レース界の「外国製が優れているから仕方がない」という言い訳も、単純に「勝負」を捨てている事に外ならないだろう。そういう人達にとっては、amazonで買い物してgoogleで検索してintelのCPUとMicrosoftの走るPCでWORDを開いて日本語を書きLINEで通信してTikTokで踊りDallaraで走る毎日に何の疑問も無いのだろう、そのアホさ加減がうらやましい。

そしてアジアに埋没する

私は今まで、世界のレース界と対等に付き合うためにはレーシングカーの開発技術が必要不可欠だから計画的な技術者の育成が必至と訴え続けてきたが、この意見の大前提としてあるのはFIAのレース体系下における経済圏に飛び込もうと言う提案だった。しかし、日本のレース界が手をこまねいている間に、アジア諸国のレース事情は急激に躍進していく。
1963年に「第一回日本グランプリ」を開催して、近隣のアジア諸国には半世紀以上のアドバンテージを築いてきた日本も、今や、開発技術力を持たず、レーシングカーは輸入に頼り、ヨーロッパのレギュレーションに支配されているという点においては、アジアの諸外国と何ら変わる事は無く、停滞していたのか落ちぶれたのかは知らないが、現状は、アジア諸国のレース環境の中に埋没しつつあるのが現実だ。

ヨーロッパのレースの経済学

私が、長年に亘ってレーシングカーを作り続けてきて感じてきた事は、FIAによって頻繁に行われるレギュレーション変更は何のためだろうと言う疑問であり、また、3年くらい経つとレーシングカーを入れ替える話が出てくる不思議さだったが、そんなものだと思っていたレース界の常識も、長く携わっていると仕掛けも見えてくる。
レギュレーション変更もレーシングカーの入れ替えも、レーシングカー・コンストラクターにとってはありがたい話ではあるし、それをリードしているのがFIAだという事は、そこに持ちつ持たれつの互恵関係が存在すると考えるのは自然だし、癒着と言うよりは、大局的に見れば、FIAとコンストラクターが協調して作り上げているレース界の経済を回すための仕組みと考えた方が素直だろう。
しかし、その互恵関係の中に飛び込んで利益を得る側に回るのならありがたい話でも、蚊帳の外にいて、ころころ変わるレギュレーションに翻弄されつつ、絶えず無駄な買い物をさせられている日本のレース界は、彼らにとっては単なるカモだ。

コペルニクス的転回

ここまでは、今まで言い続けてきた内容のおさらいにしか過ぎないし、四半世紀に亘って叫び続けてきたことが急に理解されるはずも無いから、それはそれとして、今、私が提案したいのは「鎖国」だ。
この際、アメリカの自動車レースと同様に、FIAの傘の下から飛び出して日本独自の自動車レースを構築するというアイデアはいかがだろうか?
外国の自動車レース事情に振り回されることは無くなるし、海外への資金の流出は無くなるし、レース経費は極端に下がるし、日本のレース事情に見合ったカテゴリーが構築できるし、役に立たないJAFとも決別できるし、うまく立ち回ればアジアのスタンダードにできる可能性もあるし、そうなればレーシングカーも輸出できるから、良い事だらけだ。

「ドライバー育成」にしがみ付くOBたちの意見

必ず「F1を目指す若いドライバーのステップボードにならない」という声が出てくるが、本気でF1を目指すのなら日本でレース・キャリアを積むこと自体が方向を間違っているし、ろくに英語も話せないままにF1のシートに治まれるのは大富豪の息子だけなんだから、F1を目指そう決意したと同時に海外に向かうべきで、国内のレース環境云々とは異質な話だ。

レーシングカーという誤解

1000分の1秒を競う技術の塊のように喧伝しながら実はバッタ商品のようなワンメイク・レーシングカーがはびこっていたり、安全性を謳いながら未だにコストダウンのためにカーボン・モノコックを使えないカテゴリーがあったり、真剣勝負を売りにしながら性能調整しまくったり、とかく自動車レースはギミックの塊だ。
クールな外観ながらも中身は手抜き工事の家みたいだが、そもそも現在のレーシングカーとは、時速300Km/hで疾走する超先端技術の粋という仮面とコストダウンという実情との二律背反から生まれて来た妥協の産物であるにも関わらず、レース界の人達自身が妥協点を見極められずに、中途半端なレーシングカーに高い金を払わされているのが現状だ。

発想を新たにして、新しいレーシングカーの形を生み出そう

この構想のキモとなるのは、レーシングカーの長期使用によるコストダウンだ。正確に言えば部品の長期使用だ。モノコックはアルミからカーボンになって耐久性は飛躍的に向上したし、そのカーボンも、初期に比べれば何倍もの耐久性を持つようになっている。また、レーシングカーを構成する数多くの部品も、シーズン中に何回も交換しなければならない消耗部品から、ほぼ劣化しない耐久性を持つ部品まで千差万別であり、全てが3年で使えなくなる訳では無い。つまり、各部品に見合った交換時期に替えれば良いのだ。
シャシー部品の中でも突出して高価なモノコックも、近年は、ワンメイク・レースが多くなり、イコール・コンディションの元、グラム単位の軽量化も意味が無くなっているから、少し重くするだけでも耐久性は飛躍的に向上し、親子三代で使えるモノコックを開発することは難しくない。現に、童夢カーボン・マジックで開発したソリッド構造の「UOVA」は、JAF-F4やマザー・シャシーで、その耐久性は実証されている。
つまり、最も高価な部品であるモノコックを使い続けることを軸として、その他の部品も耐用年数を明示して必要に応じて交換していく。その上で、外観を変更したり安全対策を強化したり新しいエンジンを導入したりと、時代に応じた対応をしていく。これにより、レーシングカーにかかる経費を1/4にしてしまおうと言う構想だ。

マザー・モノコック構想

このモノコックの長期使用を支えるのが安定的なレギュレーション運用だ。詳細は今後の課題として、例えば、まず4種類のマザー・モノコックを用意して、それぞれについてカテゴリーを制定する。
あくまでも例えであり、今、カテゴリーについて協議する段階では無いが、4種類のマザー・モノコックの展開例を挙げておく。

ジュニア・フォーミュラ用モノコックスクール用フォーミュラ、F-J、VITAのような車両等
ライト・フォーミュラ用モノコックFIA-F4クラス、F3クラス等
スーパー・フォーミュラ用モノコックスーパー・フォーミュラ、グラチャンのような車両等
GT用モノコックスーパーGT、インタープロトのような車両等

レーシングカー・コンストラクター

万が一、「良いじゃないか!」となったとしても、次に控えるのが「どこで作るの?」という疑問だ。最初にこんな疑問が出てくること自体が末路だが、これが、いままでレース界の皆様が注力してきた「ドライバー育成」偏重のツケだ。しかし、こんな惨状でも光明はある。
長年に亘って私の片腕として童夢の技術面を支えてきてくれた奥明宋は、現在、「東レ・カーボン・マジック」の社長だが、私の知る限り、ただ一人、真剣にレーシングカー・コンストラクターの復活に取り組んでいる人間だ。その為に、社内に「スポーツ車両開発室」を設け、人材を集め、「ムーンクラフト」を買収するなどして体制を整えている。こういうと、レース界からは「だから外国製しかない」という我が意を得たりと言う声が聞こえてきそうだが、このような、アメリカに恭順し、中国に阿て、ヨーロッパに秋波を送り続ける人たちの声は置いといて、ここを克服しなければ、これからも永遠にFIAのカモとして貢ぎ続けるしかないのだから、いわば「ヨーロッパのしもべとして生きる」か「アジアの覇権を握る」かの分かれ道と言える。
しかし、私の居た頃の童夢の実績を見れば実現不可能な絵空事でない事は解るだろうし、巷には、童夢でレーシングカー開発の経験を積んだ技術者が散逸して様々な形で活躍しているが、彼らはレーシングカーが作れないから離れたのであり、レーシングカーを作れる環境が戻れば帰ってくる人たちだから、それらの力を結集すれば即戦力となるし、現状、少し後塵を浴びているにしろ、実務に戻ることにより早期に最前線に復活するだろう。
問題は時間だ。技術者は生ものだから、経験が活かされる間での復活が重要であり、時間が経ってしまったら全てがご破算となってしまい、そうなったら、二度と我が国でレーシングカー・コンストラクターは生まれないだろう。しかし、経験上、言わせていただけば、我が国にもレーシングカーを作りたい人たちは山ほど居るから、安定的にレーシングカーを作ると言う環境が出現し技術者が活躍できるフィールドが整えば、確実に、雨後の筍のように思いもかけないところから優秀な技術者の新芽がにょきにょきと頭を出してくるはずだ。それを妨害してきたのはレース界だ。

日本の自動車レースにおける産業革命論

つまり鎖国だ! レースコストが激減すれば高い買い物を強いられていた事が解るだろう。国産化が進むうちに技術力も向上して内外からの開発受託も活発になるだろう。アジア諸国を同調させればレーシングカーも輸出できるだろう。FIAやJAFなどの「お上」と関係無くなれば存在も忘れてしまうだろう。頻繁なレギュレーション変更の理由も解ってくると腹立たしく思えてくるだろう。「ドライバー育成」の錦の御旗も色を失ってくるだろう。まあ、夢物語に過ぎないことは身に染みているが!
近い将来、日本が東南アジアのレース環境の一つに埋没している頃に、「あれっ、こんなはずではなかったのに」と思った方は、ちょっと、この提案を思い出していただきたい。私は、それを見て、草葉の陰て「そら見た事か!」とほくそ笑んでいるだろう。

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