COLUMN / ESSAY

さようならネコちゃん!!

「ライザGT」

1969年の、ある日、本田博俊氏(博ちゃん)から電話があり、「アート・センターに行っている友達が日本でスポーツカーを作りたいと言うからウチのガレージを貸すことにしたのだけど、アメリカの最新のテクニックを披露すると言っているから見に来ないか?」とのこと。もちろん飛んでいって出会ったのが金古真彦(ネコ)だった。
アクションが大きくアバウトな感じで見かけ無神経そうで大陸的な性格という表現がぴったりのネコとは、瞬間的に友達になってしまった。本田宗一郎さんの豪邸のガレージの下にはシェルターのような部屋があり、そこには保存用の食料なども備蓄されていたから、空調の利いた部屋で充分な食料に囲まれながら、先進のテクニックの披露が始まった。
当時は、合板でおおむねの形を作っておいて石膏で覆って原型を作っていたのが、FRPで表皮を作ってパテで仕上げるようになっていた頃だ。
何が違ったかと言えば、合板のセクション板までは珍しくも無かったが、ネコは、その間に2液性の発泡ウレタンを充填して縛りのきついハムのようになったウレタンを削って、かなり素早く形になってきたので、博ちゃんと私も手伝い、セクションに沿って面を仕上げていった。夜中に面を出し終えたので翌日にパテで仕上げることにして寝たが、翌朝、それは縛りのゆるいハムのように凸凹になっていた。
安定していない間に削ってしまったから膨れたんだという事だったので、また、一日かけて面を出して寝たら、翌朝には縛りのゆるいハムになっている事が一週間も続いた頃、私は手伝いに呼ばれたことを理解した。
キリがないので私は、一旦、FRPで雌型を取ってから、その内面をパテで仕上げようと提案し、出展予定の第2回東京レーシングカー・ショーが迫っていた事からネコも了承して従来工法に戻して、何とか、美しい(本人談)ライザGTが完成した。ネコと出会った日から過酷な毎日が続いたおかげで、もうしっかりと親友の領域に達していた。

「ネコママ」

当時、プレスリーファンだった私は、1973年のハワイでの公演を観に行く事にしたが、初めての海外旅行だったから不安がっていたら、ネコが「僕のガールフレンドがハワイにいるから、全部、面倒みさせるよ」と言い出した。ネコの場合、どの程度の知り合いなのかは分からないから、半信半疑で投宿するホテルのロビーで待っていたら、真っ赤なオープンのダッジ・ダートがエントランスに到着。ホットパンツから思いっきり長い脚を放り出した美女がさっそうと歩み寄ってきて「林さんですか?」と声をかけてきた。
彼女の運転でいろいろなところを案内してもらったり、食事に行ったり、ホノルルの山道に走り屋が集まると聞いて観に行ったりしているうちに、とても彼女とは打ち解けてきて、夜が更けても名残惜しい感じでどちらも帰ろうと言い出さず、ずいぶんと遅くまでデートを楽しんでいた。明け方になってやっと部屋に戻ると、ネコから間髪を入れずに電話がかかってきて、「どうだった?どうした?どうなった?」ととてもうるさい。私はいかに楽しい一日を過ごせたかを克明に説明してお礼を言ったが、「明日は?」と聞くから、「もちろん会うよ」と答えると、唐突に、「言っとくけれど、僕の彼女だからね」などと言い出した。
そんな事を言われても、こちらも突っ走り始めているから止まらない。次の日は、もう食事時から恋人ムードで楽しく過ごし、食後は真珠湾の方までドライブしながら、どちらから誘うともなくサトウキビ畑を抜けた海の見える崖っぷちに車を停めて肩を寄せ合うような雰囲気になってきたから、私は既にハワイでの暮らしなども頭に想い描きつつある時、どうやらそこは基地の敷地内だったらしく追い出されてしまい、一気にクールダウンした二人はホノルルに戻った。
ホテルに帰ったら、また間髪を入れずに電話がかかってきた。どうやらずっと電話をかけ続けていたようだ。「どうだった?どうした?どうなった?」は昨日と一緒だったけれど、その日の出来事を説明すると、途中で急に「僕は彼女と結婚するんだ」と叫びだし、紹介したものの思わぬ展開に焦りだしたのか、穿(うが)った見方をすれば、彼女の陽動作戦に乗せられてその気になってきたのか、そうであれば私はだしに使われたようなものだが、しばらくして彼らは結婚してハンティントン・ビーチに住み、私のアメリカでの定宿になる。

「DOME USA」

ジュネーブ・ショーで「童夢-零」を発表した後に国内での認定取得を試みていたが、運輸省の対応に頭に来て断念したから、どこか海外で取得するしか道は無かった。
ハワイの彼女と結婚したネコはハンティントン・ビーチで貿易商などを経営していたが、ネコが日本に帰って来た時に、日本での認定取得を諦めた事を話したら、「そりゃ、みのるちゃ〜ん(ネコはのばす)、アメリカでやるっきゃないでしょう」と熱弁をふるい始めた。とは言っても、当時は英国で取得するのが早道なのは常識だったから有り得なかったから、とても無理、無理と聞き流していたが、いつもの事ではあるけれど、言いだした本人がヒートアップしてしまい、まるでそれしか方法が無いような口調で、日夜、攻め立ててくる。
そんな頃、ネコに誘われてロスに行くことになったのだが、訪れたネコのオフィスにいた秘書のPattyはとても可愛くて、私たちはその日のうちに恋におちたから、私は滞在を延ばして、それから毎日のように二人でロス近郊をドライブしまくっていた。
Pattyの英語はネイティブだったからアメリカ育ちだと思っていたら、実は広島生まれでアメリカンスクールに通っていたらしく、ロスはほとんど知らないとのことだったので、お上りさんカップルがガイドブックを片手にロスの隅々まで散策した。
もちろん、英国での手続きの方が簡単な事は知っていたから、本来、アメリカでの認定取得など有り得ない話だったが、しつこいだけのネコの説得もそれなりに功を奏していたし、ロスの青い空とパームツリーも大好きだったが、何よりも、Pattyが居たから、いつしか、アメリカでのナンバー取得に向けて動き始めていた。
予想はしていたが、そもそもの規格が異なるから、ライトの位置やバンパーの高さなど、当初、考えていた「童夢-零」の改造では済まなくなり、結局、新たにアメリカ仕様の新型車「童夢 P-2」を製作しなければならない事になった。

この頃のテンポは異常に速い。1978年の秋口には、もう、ネコの経営するハンティントン・ビーチの会社の一部を借用し、ネコを社長にして「DOME USA INC.」を設立していたが、つくづく男は、スポーツカー・メーカーには強い憧れを持っているもので、ネコもすっかりとのめり込んで大変に熱心に取り組んでくれるのは良いのだが、とにかく火の玉のような行動力だからついていくのが大変だった。
「DOME USA」のあったハンティントン・ビーチは「Big Wednesday」というサーフィン映画で有名なサーフィンのメッカだし、405を少し南に行くとコスタ・メサに巨大なショッピング・センターがあるし、Beach Blvdを北上するとディズニーランドがあるし、海沿いを西に向かえば、ロングビーチからサンタモニカにつながっている。
だからどうという訳ではないが、とにかく西海岸の気候も環境もパームツリーの並木もランチのクラムチャウダーとキングクラブの脚も、全てのロスの雰囲気が大好きだったし、おまけに可愛いPattyも待っているものだから、具体的な回数は覚えていないが、当時、感覚的には、月2くらいで日本とロスを往復していた気分だった。

ハワイで恋に落ちそうになった彼女はネコの奥さんとなりハンティントン・ビーチの家で暮らしていた。私は、しょっちゅう泊りに行っていたが、ネコの家はロスあたりの自動車デザイナー達の溜まり場のようになっていたから、パーティやったり、いろんな人が集まってきていた。ネコのキャラクターもさることながらネコママの人気も相当なもので、さながらみんなのアイドルという状況だった。

「童夢 P-2」は、ロスではちょっとしたニュースになっていたので、ネコのところに、5月(1979)に開催されるLA・オートエキスポから出展しないかとのお誘いが来た。ジュネーブ・ショーほどではないにしろ、アメリカでは最大級の自動車ショーということなので参加することを決めたが、ネコの張り切ること張り切る事。原因は美人コンパニオンにあり、ネコは、準備のほとんどの時間を美人コンパニオン選びに費やしていた。
ショーの会場では、メディアからの取材が多く、中でも、アメリカのメジャー自動車雑誌である「Motor Trend」誌からは、表紙を含む7ページの特集を予定しているから協力してほしいという依頼が来た。私はあまりピンとこなかったのだが、現地で「Motor Trend」のメジャーぶりを熟知しているネコは狂喜して「みのるちゃ〜ん!これは大変なことになったよ」と大興奮だ。 「童夢 P-2」が表紙の「Motor Trend」誌が発売されるや否や問い合わせが殺到し、やはり、その効果は絶大であった。ネコが留守中にReggie Jacksonと名乗る人から「予約したい」と電話があり、それを聞いたネコは大興奮して、「みのるちゃ~ん!知らないの?メジャーリーグのスーパースターだよ」と騒ぎまくっていた。
私はハリウッドの芸能人の名前もほとんど知らなかったから全く覚えていないが、かなりのハリウッドスターなどから問い合わせがあったようだし、さるお金持ちの王国から購入希望が来たり、この頃のネコは、かなり血圧が上がっていたのではないだろうか。

「ルマン24時間レース」

ところが私は、ひょんなことから「ルマン24時間レース」に挑戦するチャンスが訪れた事から、途端にスポーツカー開発から興味を失い、ルマンカーの開発に没頭するようになり、ネコの「DOME USA」は置き去りになってしまう。
燃え上がっていたネコにとって、突然のルマン・プロジェクトは青天の霹靂だったし、急にスポーツカーに関心を示さなくなった私や童夢に怒りをぶつけに京都にやってきたが、ルマンに向けて殺気立つ、あまりの没頭ぶりに諦めて帰っていった。
しかし、ネコはルマンにやって来た。ネコによれば、ルマンを諦めろと説得しに来たそうだが、得意の英語力を活かしてチームの手伝いをしている内に、すっかりとルマンの虜になってしまったようで、そこは大らかというかアバウトというか、もともと大陸系の感性の持ち主だったから、すっかり我々と共にルマンの熱気に煽られて、リタイアした頃は、スタッフのみんなに、何回も何回も「来年も来ようね!」と言って回っていたものだ。

「マロニエの並木道」

ある日、ネコからメールが入ってきた。
「今、どこに居ると思う? パリだよ。マロニエの並木道のカフェで婚約者を待っているんだ」
「ホント!そりゃおめでとう!」
「でも、もう4時間も待っているんだけど、彼女、大丈夫かな?」
「ところで、何でパリなの?彼女はフランス人?」
「いや、ロシア人だよ」
賢明な諸氏は、もうここでストーリーの概略はお解りになったと思うが、その通りだった。
「どこで出会ったの?」
「婚活サイト」
「会ったことあるの?」
「ない」
「お金送った?」
「彼女の店をたたむ費用とか交通費とか300万円ほど」
「それって、確実に詐欺だよ」
「そんなことないよ。何回もメールのやりとりして理解しあっているから」
それから2時間。
「みのるちゃん、やっぱり詐欺じゃなかったよ。空港にお母さんに送ってもらう途中に事故にあってお母さんが脚を切断して入院したから来られなくなったらしい」
「普通、それを詐欺と言うんだよ!」

「ロシアの白夜」

それから1年くらい後のメール。
「今、どこに居ると思う? サンクトペテルブルグだよ。婚約者とディナーを楽しんでいるところ」
「また騙されてんの?」
「今度は大丈夫。もう、ちゃんとする事はしてるから」
「また婚活サイトで知り合ったの?」
「そう、めちゃくちゃ若くてかわいい子だよ」
「そりゃ、良かったね。彼女、英語話せるんだ」
「いや話せないよ」
「どうやってコミュニケーション取ってるの?」
「通訳が付いてるから大丈夫」
「通訳って、ずっと付いている訳にもいかないだろう」
「通訳はディナーの後は帰るよ」
「夜はどうすんの?」
「だって、みのるちゃん、夜は言葉は要らないでしょ」
すぐに終わった。

私に、ネコの悪口を話させたら朝まで止まらないだろう。と言うよりも、私が話すと全てが悪口に聞こえてしまうが、私から言えば悪口ではなく、ネコのピュアな一面を紹介しているつもりだ。あの風貌だから表現は適切では無いが、私から見ればガラスほどに透明感のある人となりは、まるで子供と遊ぶように、疑う必要もなく、気を遣う必要もなく、一切の悪気を感じる事も無く、私の方まで子供になってつき合える心地よい友達だった。
私は無尽蔵に金の要る自動車レースの世界に居たから、誰もが、私に近寄っても金にならないどころか、下手したら取られるのではないかと思われていたのだろう。今まで、一切、金銭トラブルとは無縁だったが、69歳での引退に先立ち会社を売却した事から、何だかんだと金にまつわる嫌な出来事が重なり、ちょっと人間不信的な気持ちも芽生えつつあるが、そんな時、一番、会いたいと思ったのがネコだ。大好きなロスの気候の中で、ネコと裏表のない屈託のない話をしているだけで癒されると思っていたから、昨年末には「来年の春には行くよ」と言ったら「二人だけで来るんじゃないだろうね。もう一人連れてきてよ」と生臭い返事が返ってきたから、まだまだくたばる気配も無かったのに・・・
合掌。

林みのる

ページのトップへ戻る