COLUMN / ESSAY

童夢の終わりと始まり ―引退パーティー

1965年の春から始まった私のレーシングカー造りの人生は、ちょうど半世紀をもって幕を閉じようとしていた。
以前から、70の声を聞いて仕事はしないと言っていた。理由はいろいろあるが、最大の理由は創造力の低下に耐えられなかったからだ。読売の渡邊主筆などの職種は経験や人脈などで能力の低下をカバーして余りある力を発揮できるのかも知れないが、物づくりにおいては創造力が最も重要だし、それは、歳を食うと努力や根性ではカバーしきれないでリタイアを余儀なくされるアスリートに似ているかもしれない。
特に私は仕事が速かったし、まず、迷うという事が無かったから、デザインするにしても文章を書くにしても瞬間芸と言えるほど速かった。雑誌のエッセイなんかを頼まれた時に、その主旨を聞きながら書き始め、電話が終わってしばらく後に原稿を送って驚かれる事もしばしばだった。だから、どんなに忙しくても夕方には切り上げて飲みに出ていたし、飲みに出る時間を捻出するために仕事が速くなったとも言える。
ある時期、良く、ムーンクラフトの由良拓也と比較されるような記事が出ていたし、拓也も、すっかりとその気になっていたようだが、私は「例えお前と同等だとしても、お前は一日中仕事をしているが、私は、一日の半分は飲んでいるんだから、土台、お前は俺には勝てない」と言ったものだ。
それはさておき、その私が、60代も後半に差し掛かると、創造的なデザインもアイデアも浮かんでこないし、文書を書くのも遅くなるし、カメラを買うだけでも決めきれずに半日もヨドバシカメラをうろうろするし、まして、自宅の土地の選定などは迷い過ぎて不動産屋に見捨てられるほど優柔不断だし、それが車のデザインともなると机の上に白い紙を拡げたまま即身仏状態に陥って悠久の時が流れ出す。
努力も根性も通用しない世界で頑張っても仕方が無いので未練は無かったが、第一線を退くにしても、そこが普通には終われない私の性、最後に最高にカッコ良い幕の引き方をしてやろうと企んだのが「童夢と林みのるの最後の夢」だった。その気宇壮大な計画に関しては 10 Aug. 2022 「童夢と林みのるの最後の夢」山口正己氏の寄稿から抜粋 を参照。
しかし、その、最高にカッコ良い幕の引き方が、最高にカッコ悪い強制終了となってしまった。概略は「ブラジャーVSレーシングカー 2-digest-」を参照していただきたい。
超簡単に言えば、私の引退と同時進行していた当時の妻との離婚問題に絡み、その妻が、突然にワコールの代表顧問弁護士と7人の弁護士団と言う強力な体制を投入して、相続対策のために妻の名義に変えていた私の資産を「私の名義だから私のもの」という理由で、10億円にあまる私の資産の収奪に走り出した。当初は、お互いに弁護士を立てて交渉していたが解決に至らず、時間切れで「童夢と林みのるの最後の夢」が破綻してしまった。
その上、その妻というのがワコールを創業した塚本家の娘であり、その支援者が兄のワコール会長である事から、多くの友人がワコール側に付き、私は多くの友達を失っていたし、世間では、まるで私が元嫁の資産を奪いに行っているような真逆の噂が蔓延していた。

もともと、「童夢と林みのるの最後の夢」の副産物として開発を予定していた「スーパースポーツカー とわ」のお披露目をメインとした発表会のようなイベントのついでに、私の引退パーティも刺身の妻にしようと思っていたところ、引退を決意したと同時に、子供も資産も奪われ、老後を彩るはずのプロジェクトが破綻し、友達まで失ってしまうのだから、呆然自失、途方に暮れるしかなかった。
それにしても、さすが一部上場企業の力は伊達では無く、結婚式場を経営している友達は「ワコールさんはお客さんだから」と塚本側に付いたし、慣例となっていた時候のあいさつや年賀状まで送り返して来る人もたくさん居たし、親友だと思っていた多くの友達たちも「塚本さんから連絡するなと言われている」と去っていったし、なじみの飲食店も、私が行くと塚本グループが来なくなるといい顔をしなかったり、とにかく、狭い京都は四面楚歌状態になっていたから、当初に考えていた「京都国際会議場」を借り切っての大発表会など夢を見ていたような話になっていた。

そんな奈落の底を這いずり回っているような気分の私でも、元嫁(この時点では離婚が成立している)の詐欺師まがいの悪辣な行為は許し難かったから、しばらくは元嫁との紛争解決に没頭していたが、弁護士間の交渉では解決しなかったので訴訟提起して司法に判断を委ねることを決意する。後で解るが、これは白鵬と喧嘩して土俵に引っ張り上げたくらい大きな間違いだった。
しかし、私にとっては最終手段だったし、よもや、泥棒の現行犯が無罪になるとは思ってもみなかったから、ちょっと気が緩んでいたのだろう、この裁判によって晴らされるはずの私の汚名や、回復されるはずの私の名誉を喧伝する意味も含めて、引退パーティを催すことを考え始めていた。 いろいろ問題は有ったが、最大の心配事は、友人も少なくなってしまった今、どれほどの人が来てくれるのか目途も立たなかったから、何人、集まってくれるかがずっと心配だったし、パーティ当日、挨拶する私の前にガランとした会場が広がっているシーンが頭をよぎり、そんな脅迫観念に追い立てられるように、あれもしなくちゃ、これもしなくちゃとエスカレートしていったようなものだった。
また、私は70歳になって仕事はしないと宣言していたから、と言うことは、パーティは7月15日(私の古希の誕生日の前日)になるが、京都では祇園祭の宵々山で賑わっていて会場の確保が難しい。
パーティやろうと思い立ったのは秋口だっただろうか、それからは、会場探しと芸妓舞妓の確保と短編ビデオの制作とお土産に配る「童夢の奇跡」という本の制作とホテルの宴会場に花街を再現する「書き割り」の手配と「マクランサ」と「カラス」の復刻とメニューを考えワインを選び招待者リストを作成した。
こう言うと、どんなパーティでもやる事だと仰るかも知れないが、実際、宵々山の会場の確保は困難を極めたものの、最後の頼みの綱の東急の五島 祐氏に頼み込んで、どう処理してくれたのか知らないが、全ての宴会場と多くの客室を確保してもらった。
同様に、宵々山の芸妓舞妓の確保も難しかったが、正月や節分の「おばけ」等で散財しつつ各花街のボスの機嫌を伺いつつ、かなりの人数の確保に成功した。
「童夢の奇跡」の制作も、レース界の名だたるジャーナリストと編集者を集め、しかも、最後の1ヶ月は童夢社内に軟禁して間に合わせた。

当日、ある程度の出席の返事はもらっていたから誰も会場に居ないという悪夢は見なくて済みそうだったが、500人収容の会場に対して出席の回答は300くらいだったから、ちょっと寂しい状況も考えられたが、蓋を開けてみると、前室のロビーにまで人が溢れ、支配人の話では「優に600人を超えています」とのこと。
それまでの友達の多くが元嫁側に流れたおかげで、そのほとんどがレース界の人たちだったが、このホームページのコラムなどを読んでもらえば解るように、今まで、散々にバカにして猿扱いしてきたレース界の人たちが、こんなに大勢、遠くから駆けつけてくれるのだから、さすがの私もウルっときたし、心から嬉しいと思ったし、感謝しか無かった。

この「童夢の終わりと始まり」という私の引退セレモニーの内容に関しては、モーター・ジャーナリストの山口正己氏の書いた文章があるので、紹介しておこう。

「ブラジャーVSレーシングカー 2(山口正己著)」より「童夢の終わりと始まり」

出会った頃から数えると約30年も過ぎた2015年7月15日に、林氏は、京都で「童夢の終わりと始まり」と銘うつ引退パーティを催している。 あるジャーナリストが記事の中で「童夢の終わりと始まり」に行ってきました。それはそれは盛大な宴でした。レース界に限らず、クルマ業界においても、日本でこれほど盛大なイベントは、そうお目にかかれるものではありません!!」と評しているように、それは、誰もが目を丸くするような豪華で濃厚で瀟洒で粋な催しとなった。
まず、その会場である京都東急ホテルの玄関に「童夢-零」と「MACRANSA」と「カラス」が展示されていたが、「MACRANSA」と「カラス」は、この日の為に復刻されたレプリカだった。大宴会場には、500人のキャパをオーバーする約600名の来賓であふれていた。林氏の最初のこだわりは定時にスタートする事だった。普通、10分や20分は遅れがちだが、立食形式で来賓を待たせることは出来ないと、それこそ16時00秒にパーティが始まった。
長い挨拶は一切なかった代わりに、世界のレースシーンを撮り続け数々の映像作品を創り出している「y2」制作の映像に、林氏の甥っ子にあたる作曲家の「林ゆうき」氏の楽曲を挿入した20分のビデオが上映された。林氏の子供の頃から現在までの足跡を駆け足で紹介していたが、その内容の濃密さは、よく知っていたつもりの私でさえ感銘を受けたし、そのビデオの最後に「これ以上は無理だったが、これ以下では満足できなかった」という林氏の言葉が出てきて、思わず眼がしらが熱くなってきたものだ。
会場に並んでいた料理も景色が違った。料理長の説明によると「メニューから食材まで林氏の指定により作っており、通常の宴会では考えられないコストがかかっている」と仰っていたし、ワインも林氏が選んだ逸品しか置いていないとの事。美味しかった。
しかし、それは序の口だった。次に通された懇親会場では腰が抜けそうになった。京都中の芸妓さんの総てを総動員させたいのではないかと思える数の舞妓芸妓さんに迎えられて驚いたが、その上、そのホテルの5つの宴会場を「祇園」「先斗町」「上七軒」「宮川町」「祇園東」という京都の五花街に分けてお座敷を設えて京都の縮図を再現し、ゲストたちは、本格的な京料理や野立てが振る舞われ、舞妓の踊りを鑑賞し、お座敷遊びに興じた。後で聞いた話だが、林氏はかねてより「70歳になったら仕事は止める」と宣言していたから、70歳の誕生日の前日の7月15日に引退パーティを開催した訳だが、この日は京都最大のお祭りである「祇園祭り」の宵々山であり、芸妓さんの確保だけでも難しいのに、その上、各花街のお母さん(ボス)が全員やってきて仕切っていたそうだから、地元の遊び人からも「有り得ない」と言わしめるほどの光景だったようだ。
また、各花街の演出には「書割」という歌舞伎の舞台の背景などで使われる絵で飾られており、この平面的に表現する技法が独特の世界観を醸し出していたが、これは実際に京都の南座の書割を描いていらっしゃる棟梁の中田節氏の手になるもので、こんな所にも林氏のセンスが光っていた。
帰りのお土産が重かった。しかし、中に入っていたのは、林氏が数名の有力な自動車ジャーナリストの協力のもと1年をかけて制作した濃密な内容の分厚い本で、その中に童夢の歴史が凝縮されていた。
おまけに、遠方からきてホテルに宿泊した人の宿泊費も払われていたし、芸妓さんに誘われて夜の街に繰り出した人の呑み代も林氏に回されていたそうだから、とにかく、常識はずれのスケールだった。
しかし、その「童夢の終わりと始まり」の目を見張る華やかな演出に目も眩みながら、宴が終わって見れば、結果的に、林氏が引退し、童夢が人手に渡り、日本の自動車レース界に多大な足跡を残してきた林みのるという貴重な存在が消えていくということだけが伝えられて、パーティは、ある意味であっけなく終わってしまった。

画龍点睛を欠くパーティ

なぜ私が「あっけなく終わってしまった」と感じたのかと言うと、私は、林氏が引退に先駆けて計画していた気宇壮大なプロジェクトの存在を知っていたいたからであり、本来は、このパーティで発表されるはずだったから、事前にプロジェクトの破綻は聞いていたものの、やはり、なんとも納得のいかない幕引きに思えたし、この壮大なパーティも、林氏のやり場のない憤りの反動のように思えて、やや複雑な気持ちでパーティの進行を見ていた。

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