COLUMN / ESSAY

「鈴木亜久里は友達じゃない。」 ―ESSAY―

亜久里はよく私のことを「僕の友達じゃない」と言うし、私も「亜久里は私の友達じゃない」と言う。冗談とも言えるし、ある意味、事実でもある。と言うのは、私は亜久里の父親のジャッキーの友達であり、亜久里は友達の息子ということになるからだ。
土曜日、そのジャッキーが鈴鹿に現れると聞いて、たいした用事も無かったが、久しぶりに愛車を駆って会いに行った。ジャッキーと頻繁に会っていたのは40年以上も昔の浮谷東次郎や生沢 徹、本田博敏などという若者が自動車レースにのめり込みつつある時代で、私なんか弱冠19~20歳くらいの青二才の頃だった。
よく覚えていないが、ジャッキーと会うのは、かれこれ35年ぶりにもなるだろうか。
たしか、私より9~10歳ほど上なので、もうかなり高齢のはずだし、だいぶくたびれてきたよと言う噂も聞いていたので、どんなよれよれの爺が現れるのかと心配していたら、ピットロードに立つジャッキーはかくしゃくとして声の大きな話しっぷりも昔のまま、毎夜、キャバクラに入り浸っているといわれれば信じるほど元気なジャッキーが現れた。

ジャッキーに会った瞬間、鈴鹿サーキットのピットロードの時空がワープして1965年あたりのクラブマン・レースのピットに戻っていた。浮谷はよれよれのレーシングスーツに相変わらずのスリッパを履いてうろうろしている。時々、徹ちゃんが浮谷に内緒話をしに来る。何かよからぬ相談をしているようだ。博ちゃんは何だかんだと言いながらも手伝ってくれる。常連のレースが大好きな女の子達もいるが、当時、レースのことしか頭に無かった私は、みんな仲の良い友達だと思っていたが、今から考えれば、いろいろなカップルが出来上がっていたようだ。
突然、私の脳裏に、いつも私の傍にいた芦屋のお嬢さんのことが浮かび上がってきた。彼女のお父さんも鈴鹿を走っていたのでいつも付いて来ていたが、その内、レースが大好きになり一人で愛車のスポーツカーを運転してやって来るようになった。いつも私の傍にいてくれたが、当時の私はそうとう鈍かったようで、ずーっと友達のままで終わってしまったことを、今更、後悔しても始まらない。
パドックの夕暮れ時は夕日がとても切なく感じられる。理由は、どこで夕食を食べるかに尽きるが、切なさは財布の軽さが主たる原因だ。とにかく、徹底的にお金が無かったから、何をどこで食べるかというより、どうして晩飯に有りつこうかと言うことが先決だった。夜は、鈴鹿サーキットホテルの四人部屋が定宿だが、いつも6人くらいは泊まっていて、金も無いから、酒も飲まずに、みんなでひたすら喋り続けた。そんな時代、我々の中でも年長だったジャッキーは、年上と言うだけではなく、その親分肌の性格からもリーダー的な存在だった。ただし、いろいろな武勇伝からも判るように評判の暴れん坊で怖い存在でもあった。
いわく、本田宗一郎を殴った唯一の人間だとか、博ちゃんの乗ってきた車をぼこぼこにしてしまったとか、武勇伝は尽きない。
当時、ホンダの社員だったジャッキーは、この事件により退職を余儀なくされるが、明らかに非があった本田宗一郎さんがお詫びの意味も込めて仕事上のビッグチャンスを与えようとしたが断り続けていたという頑固者だ。

私といえば、同級生の鮒子田と朝から晩までアルバイトに明け暮れ、夜中は、自宅の車を持ち出して朝まで山道を走り回り、日曜日には、その稼いだバイト料を握り締めて鈴鹿詣を続けるうち、浮谷や博ちゃん達とも知り合いになり、船橋サーキットで浮谷と生沢の対決を手伝ったり活動範囲を広げつつ、浮谷と「カラス」を作ることになり、初レースで優勝したと思ったら突然訪れる浮谷の他界。ものすごくいろいろな出来事が重なり、すごく長い時間のように感じるが、思い返せばほんのひと時の出来事だった。

今、鈴鹿サーキットで向かい合うジャッキーと私は、40年近くの時を隔てても、同窓会での再会の時、「おい」「お前」と呼び合うように、昨夜、夜中までピットでS600の整備をしていた次の日の朝の気軽な挨拶みたいに、何事も無かったように世間話が始まった。違うのは、話の内容が、思いっきり昔話ばかりだということである。

当時、たしか4~5歳だった亜久里がもう少し成長した頃、カートに乗せ始めたと聞いた。
亜久里に夢を託したジャッキーは、自分の指定したタイムで走れなかった亜久里がピットインしてきてヘルメットを脱ぐと、その頭を思いっきりガソリン缶で殴りつけていたという。英才教育というより暴力教室である。
反面、家を建てるために買っておいた土地を手放してもフォーミュラを買い与えたり、亜久里がなかなかF3で勝てなかった頃には、何回も私に電話してきて、「何とか勝たせてやってくれ」と頼まれたり、とにかく一生懸命だった。その頃、童夢はF3とは無縁だったので何も出来なかったが、暇だった亜久里は、毎日のように当時の童夢東京事務所に遊びに来て時間をつぶしていた。
そういうことを思い出すにつけて、つくづく、亜久里はジャッキーの渾身の作品だなと思う。

ジャッキーに会うためだけに訪れたようなものなので2時間ほどでサーキットを後にした。最近は、少し近道になる竜王インターからのルートを使うが、ジャッキーと会ってタイムトリップしていた私は、昔、何百回も通いなれた栗東インターのルートから帰ることにした(当時は栗東までしか完成していなかった)。道すがら、このドライブインの豚汁はうまかったとか、ここでスピードの取締りをしていてみんなで逃げたとか、ここで獲れたての鮎を売っていたとか、怖いことに、走っているうちに、次のコーナーまで思い出してくる。
特に、鈴鹿峠の鰻の「きみのや」は、いつも半助(残りの頭と尻尾)とご飯を50円で食べさせてくれて私の生命維持に貢献してくれていた。
35年ぶりにもなるサーキットでの再会によって、私の頭にもバックミラーが装着されたようだ。

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