COLUMN / ESSAY

「マクランサの秘密(1966の出来事)」 ―FRPモノコックだった―

1965年、私が19歳の春、やっとレーシングカー作りのチャンスが訪れて「からす」を作って、デビューレースで優勝したけど、借金だけが残った割に日常は何も変わらず、いつものクルマ好きの集まる喫茶店でぐたぐたと時間を過ごしていた時、二人のおじさんが「林君はいるか?」と尋ねてきた。その一人が、それから長い付き合いになるやぶさん(矢吹圭造)だった。当時はものすごくおじさんに思えたが、今から考えると、二人とも二十歳代の若者だった。
「資金協力するから日本グランプリに挑戦しよう」という願っても無い申し出だったから、その場で芦屋のやぶさんの豪邸まで付いていったと記憶している。
そして、「TOJIRO-Ⅱ」などを作り、やっと本格的なグランプリ・マシンの開発に取り掛かった頃、その資金を出してくれていたやぶさんの友達が消えてしまい、途端に資金は枯渇したが、何しろ、夢のようなプロジェクトが進行中、止めるという選択肢はどこにも無かったから、私は、独力でグランプリ・マシンの開発を続ける道を選ぶが、おかげで、それから地獄のような壮絶な体験を重ねることになる。
その辺りを語りだすと長くなるから割愛するが、その頃、計画していたのは、FRPツインチューブには発泡剤を充填し、平面部にはハニカムを使用するという超最先端技術を投入したモノコックに、前後サブフレームを付けた構造とし、フロントはWウィッシュボーン、リアはオリジナルのチェーンドライブという、当時としては画期的なスーパー・マシンを考えており、サブフレームを製作するのだから、当然、エンジン位置は最も下まで下げていた。シャシーの図面を書きながらも、当時、一番時間のかかったボディの造形に着手しておく必要があったので、そのシャシーの基本レイアウトに合わせてボディのスタイリングも進め、マスターモデルが完成し、二次マスターの成型が終わっていたようなタイミングだったと思う。
ただでさえ時間に追われていたのに、それからは私自身が資金の調達に走らなければならない状況に陥ったために、決定的に時間が無くなり、寝る時間が無い、腹が減っても食うものが無い、作業を進めたくても材料が買えない、作業場所も追い出されそうと、何重苦の中、何とか、FRPモノコックの製作に取り掛かっていた頃、禁じ手だが、硬化をいそぐあまり成形中のモノコックをストーブの横に置いて温めたまま、あまりの睡眠不足に寝込んでしまった。

この写真は、1966年の第3回日本グランプリに間に合わないので、已む無く。大失敗のツインチューブ・モノコックをS600のフレームに乗せて「Tojiro-III」をでっち上げた後の残骸だ。時代的にかなり斬新なアプローチだったと自画自賛しておくが、注目すべきは、あらかじめ、間に合わない事を想定してモノコックの底をS600のフレームに嵌るように作っていた事だ。

夜中に飛び起きたが、時、既に遅く、モノコックの型と製品は変形変色して使い物にならなくなっていた。この時の私の落胆ぶりは今でも鮮明に思い出すほどショッキングな出来事だったが、ショックの最大の理由は1966年の第3回日本グランプリに間に合わなくなることだった。私は、何としてもグランプリに間に合わせなくてはならないと煮詰まっていたものの、良く考えたら、もうスポンサーもいなくなっていたし、誰と何の契約をしていた訳では無いから、止めてしまっても誰からも文句は言われなかったと思うが、止めるなんて発想は頭の片隅にも無かった。
行き詰っているどころでは無い私を救ってくれたのはやぶさんだった。それまで借りていた作業場は農家の土間みたいなところと狭い庭だけだったから、もちろん工作機械は無く、これからのサブフレームなどの製作には適していなかったし、何よりも、いつもの匂いとFRPの粉の痒さと家賃の滞納で出ていかなくてはならなくなっていた。
見かねたやぶさんが紹介してくれたのが、神戸の「グランプリ・スピードショップ」の前川さんだったが、グランプリもスピードショップもカッコよかったし、何よりも、外国の雑誌でしか見たことないようなおしゃれなガレージは光り輝いていた。
それは良いのだが、何しろ、こっちは一文無しだから話にならないと思っていたら、前川さんは「グランプリに出るマシンを作ったことが無いから手伝ってみたい。支払いは後で良い」と言ってくれたから直ちに移転。初日に、今でいう開発会議を開いたが、その時点でグランプリまで2週間を切っていたから、私の言うFRPモノコックからの作り直しはもちろん、サスペンションの製作もエンジン位置の変更も全て不可能と言われ、非常に残念だったが、私も、強く言える立場でも無かったので妥協するしかなかった。
妥協と言えば、当時、マスターモデルから全体を型取りして、その二次マスターを加工してカウルやドアなどの部品を作り、それから型取りした成形型から本製品を抜くという手順を踏んでいたが、その時点で完成していたのはぶ厚い二次マスターだけだったから、その二次マスターをそのままカウルとして使う。エンジン位置の変更もサブフレームもサスペンションも無理なのでオリジナルのS600のフレームをそのまま使う、フレームとカウルの接続には歪んでしまったFRPモノコックを使うという、ほぼ、私のやりたかったことを全て諦めたような妥協案だったが、結局、4人のメカニックを付けてもらって徹夜の連続で何とか形にまで持って行けたものの、配線が間に合わなかったので、手作りの牽引トレーラーで神戸から富士スピードウェイに輸送する途中のマシンに乗り込んで作業を続けたくらい、間に合ったのが奇跡のようなドタバタ劇になってしまった。
その結果、マスターモデルはエンジン位置を下げることを前提に設計しているから、必然的にエンジンは飛び出してしまったが、カバーが付いていないのには少し事情があった。「グランプリ・スピードショップ」の前川さんは、二次マスターをカウルとして使ってしまって重くなったのを気にして、ちょうど、在庫で持っていたスーパー・チャージャーを付けようと言い出したので、我々は勝手にエンジンの上にそびえるホット・ロッドのスーパー・チャージャーを想像していて、エンジンカバーは手つかずになっていたところ、実物はとても小型でボンネットの下に収まってしまったから、結果、エンジンだけがむき出しになってしまったという訳だ。
配線も終わり、富士スピードウェイのパドックで加速してみたら、今までとは全く違う加速感を得られたので、これはいけるかもと期待に胸が膨らんでいたものの、スタート直後からエンジンの調子が悪くなり、しばらくしたら止まってしまった。
リタイアした後に調べたら、スーパー・チャージャーの駆動ベルトが伸びて空回りしていた事が判明したから前川さんに報告したら、前川さんが、伸びるのを見越してナラシをしておいてくれたのに、私が念のためにとレース直前に新品に替えたことが原因だった。
レース前の空き時間、疲れ果てていた私はマクランサを牽引していった車の中で爆睡していたが、後で聞くに「これは普通の睡眠とは違うで」と心配したやぶさんが医務室に相談に行ったとか、ピットからスタートするドライバーと打ち合わせしている内にこっくりとしていたとか、終始、朦朧としたままグランプリの会場いたようで、何をしていたのか、ほとんど覚えていない。
京都に帰ってから、しばらくは体調を崩して寝ていたら、母が「あんた、体に厚さが無くて紙みたいやな」と心配して、それからしばらくはごちそうが続いたので、すぐに元に戻ったが、この頃のレーシングカー作りは、ある意味で命がけだった。
以上、「マクランサ」のエンジンが飛び出している理由の説明でした。

富士のパドックのTOJIRO-Ⅲ
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