COLUMN / ESSAY

「梯子を外されたルマン」 ―悪夢―

TOM’Sの舘と私の、それまでの長い間の苦労が実を結んで、2005年、やっとトヨタをルマンまで導くことに成功しました。まだ、マシンも体制も脆弱な状態でしたが、トヨタの名前で参戦する以上、たちまちの間に全てが好転するものと信じていましたから、舘も私も、希望と期待に胸を膨らませながらルマンに赴いたものです。
トヨタからは、「それまでの童夢の経験と実績が頼りだからTOM’Sを指導しながら最善を尽くしてほしい」等と言われていましたし、チーム名も「Team DOME & TOM’S powered by TOYOTA」となっていましたから、<JUNK BOX>の「私の力作 ルマン・ガイドブック(1985)」―トヨタ用― で紹介しているような入念なガイドブックの制作から、TOM’Sの分のホテルやレンタカーの手配やレストランの予約まで、全ての手配を引き受けていましたし、ルマン特有のレース機材も共有したりTOM’S分を作ったりと、そりゃ、何から何まで面倒を見たものです。

そのルマンにおいて、常にTOM’Sは優等生でしたが、童夢は少々突っ張っていたのでしょうか?ルマンにはトヨタのT専務が応援に来てくれましたが、さすが専務となると周囲の緊張も只ならぬものがあり、いつもは威張っている部長クラスがへいこらしている様は、こちらにも緊張感が伝わってくるほどで、マシンはいつも磨かれていましたし、ピッとの中も、いつになく整理整頓されていたほどです。
ところが、この専務、大酒のみで、夕食後にホテルに呼び出された時には既に泥酔状態でしたし、私と専務以外のトヨタの人たちは壁に張り付いて直立不動という異様な雰囲気の中、ろれつが回っていなかったのでよく聞き取れなかったのですが、専務が「君はよく頑張っているから私がここに風洞を作ってあげよう」と言ったので、私は「ありがとうございます。しかし、ここでは使えないので日本に作ってください」と言ったところ、「要らないと言うのか!」と怒り出しました。その後、どうしたかは覚えていませんが、手に負えないと思った私は部屋を出ましたが、追いかけてきたTOM’Sの大岩さんが「専務が、もう童夢とは付き合わないと言っているから、とにかく謝ってくれ」と言いましたが、私は「聞いていたんだから、どちらが悪いか解るだろう。何を謝るんだ」と無視して帰ってしまいました。
しかし、これは酔っ払いの戯言では無く、それから、もう童夢は切られるらしいという噂話が聞こえるようになっていましたから心配はしていましたが、さりとて出来る事はありませんから、首を洗って待っているしかありませんでした。悪い事に、この光景を目の当たりにしていた「週刊フレイボーイ」が記事にしてしまったのでトヨタ内部でも話題になっていたようで、多くの関係者から問い合わせや情報提供など頂き、余計に切られるムードが高まっていた頃、トヨタから電話があり「専務が急逝されましたので、今まで通りのお付き合いをよろしく」と告げられて驚いたものです。お葬式に行きました。

また、85Cは国内で充分にテストを重ねてきましたしセッティングも煮詰めてきました。そこは経験上、富士スピードウェイとサルテサーキットの設定の差も解っているので、後は、サルテサーキットに着いてから天候やコースコンディションに合わせて調整するだけでした。しかし、当初からドライバーのエイエ・エルグはおかしいと言い続けていましたし、データ的にも有り得ない状態が続いていましたから、どう考えてもエンジンパワーが出ていないと思われ、TRDの担当者に改善を求め続けましたが、おかしな状態は続いていました。
ルマンでは、気圧の変動やガソリンの品質の問題で予定の出力が得られないケースもありましたから、祈るような気持でエンジンの御機嫌が直るのを待っていましたが、ところが、予選になっても復調せず、エイエ・エルグはターボのブースト圧が上がっていないと言い出していました。私も、それまでのピットでの作業を見ている限り、エンジンの改修に努力しているという感じが見受けられなかったので、おかしいなとは思いつつも、あまり疑う気持ちも無いまま、本番を迎えました。
本番でも予定していたタイムが出ないままでしたし、エイエを始めとするドライバーたちもテストとは別のエンジンだと言い出しますから、何回もTRDの担当者を問い詰めましたが要領を得ないまま時間だけが過ぎていった頃、エンジンにクラックが入って水漏れが発生します。水を補給して何周か走れるという状況でしたが、再スタートしたエイエは「一段とパワーが無くなっている。明らかにブーストを操作している」と言い出したので、私はTRDの担当者をピットの裏に連れ出して激しく問い詰めたところ、トヨタの完走最優先という指示のもと最初からブーストを下げている事、今からは、もっとブーストを下げてエンジンを壊さないように労わりながら感想を目指す方針であることを聞き出しました。
それでは良くて最下位完走しかありませんし、感想を目指して何時間ものろのろと走るのは忸怩たるものがありましたから、私はそれよりも、85Cの速さを見せつけて来年に繋ぎたいとの思いが強かったので、またTRDの担当者を脅してテスト時のブーストに戻すように頼みました。いろいろやり取りはありましたが、最終的に、その担当者も最後まで持たない事は解っていましたから協力してくれることになり、エイエのドライブでピットアウトした85Cは快音を響かせてストレートを通過し、驚異的な区間スピードを記録しながらユーノディエェールを通過したところでエンジンがブローしてリタイアとなりました。
つまり、反抗的だし、言う事を聞かない悪い子でした。

次の年、チーム名は「Team TOM’S and Team DOME」となり、この年でお払い箱となりました。それまで、かろうじてルマンを続けてこられたのは、DFVと言うエンジンやギアボックスなどを持っていたからですし、レース機材などは現地に預けていましたし、毎年、次の年のホテルなどを予約して帰るから近くに泊まれましたし、継続していたからこそ続けられてきましたが、全てを失っては継続は不可能です。感覚的には、利用されて捨てられたという思いもありましたが、なす術も無いので、已む無くフォーミュラのレースに向かう事になります。

そんな悪い子だったから排除されたのでしょうか?こう言うと、きっとTOM’Sからはブーイングが聞こえてくると思いますが、それも理由の一つかも知れませんが、その頃の流れとして、TOM’Sが童夢に憧れていたという状況も無視できないと思います。
話は前後しますが、TOM’Sは童夢の設計者を引き抜いていますし、御殿場に「TOM’Sテクニカル・センター」を作っていますし、同じく御殿場にカーボン工場も作っていますし、英国にコンストラクター「TOM’S GB 」を創業していますし、スポーツカー「TOM’S エンジェル」を開発していますし、F1進出も発表しています。つまり、童夢の後を付いてきている訳で、憧れが言い過ぎなら真似をしていたと言えます。
そういう傾向は84Cの頃から見え隠れしていましたし、85C以降の開発に関しても、何だかんだとTOM’Sが関与していたように吹聴していましたから、傾向としては最初から変わっていません。
しかし、そういう下地があったにしても、TOM’Sが童夢を排除する方向で動くとは考えられませんから、そこにトヨタの意向があったことは間違いありませんし、現に、86年でお終いと引導を渡しに来たトヨタの担当者のS氏は、はっきりと「TOM’Sに一極集中するというトヨタ上層部の意思は固く、覆せなかった」と言っています。
ちなみに1987年のチーム名は「Team TOYOTA TOM’S」となっていました。

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