れなくなってしまった︒ それは︑母にしても一時的な制裁のつもりだったんだろうが︑母にとっては︑それからモトクロスのレースに出たり夜中まで走り回ったりする私がどんどん不良化していくように見えていたようで︑そんな不良化に資金提供できるものかとまったくこづかいをくれなくなってしまった︒そんなわけで私は︑弱冠14歳で唯一の収入の途が絶えてしまったから︑なんとかお金を得る方法を考えなくてはならなくなったが︑もともと︑やりたいことは一杯あって到底こづかいでは足りないのだから︑いずれにしろ何かで稼がなくてはならない宿命だった︒それがたまたま14歳だったということだ︒ここから延々︑私の極貧人生が始まることになる︒ オーディオには全く未練はなかったので︑部屋にはトランジスタラジオが一個残っていただけだった︒そのかわり︑日に日にバイクの部品と専門誌が山積みされていった︒ 面白いことに︑あれだけ毎日一緒にオーディオ作りに熱中していた鮒子田も︑私の宗旨替えと同時にバイク派になっていて︑今までと変わらず毎日一緒に走り回っていた︒ この頃は︑とにかくバイクに熱中していたが︑私も鮒子田も︑バイク雑誌のついでに自動車67コペルニクス的転回
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