るのに成績が悪いままであることをとても気に病んでいた︒しかし︑中高校と進むにつれて成績はますます悪化するものの︑だんだん︑私が意図的に勉強を放棄していることがあからさまになるにつれて︑相変わらずガミガミ言い続けてはいたが︑母の心配の種は︑﹁勉強できない﹂から﹁勉強しない﹂に変わって行って︑怒り方も少しドライな感じになり︑ち■っとは安■■■■していたのではないかと思っている︒ しかし︑私にとっては終始︑自分の最も興味あることに没頭することの最大の障害となっている学校や勉強は︑疎ましいの一言に尽きた︒ 今なら何とでも屁理屈をこねられるが︑当時は︑まだしっかりと理論武装もできていないし︑自分自身でも好きなことに没頭して学生の本分を全うしていないという後ろめたさも感じていたから︑母のこの︑ためいき交じりのセリフは私の心に痛く突き刺さった︒ それでも︑母が次々と送り込む京大生の家庭教師連中を自信喪失させて撃墜しながら︑そのうち試験勉強までもボイコットするようになり︑最大限に欠席していた上に何かの病気でしばらく欠席したために︑ついに高校は3年生で追放となってしまった︒ 母はあまりのショックで心臓発作を起こし倒れた︒絶対安静の枕元に呼ばれた私は︑大学に29林 宇多子という母親
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