﹁PANIC﹂ MACRANSAを売ったりしていた将一は︑﹁カーマン・アパッチ﹂なんかを作ってレースに出ていたが︑そのうち︑FJという入門用のフ■ーミュラの生産を始め︑いつの間にかいっぱしのレーシングカー・コンストラクターとなっていた︒ その頃のハヤシレーシングに行くと︑自費でフ■ーミュラを購入してレースに参加しているアマチュア・ドライバーがたくさん集い︑それなりにホットなレースの世界を形成していた︒レーシングカーを作ることにしか興味がなかった私は︑レース活動そのものにはほとんど関心がなかったが︑このハヤシレーシングの活気には少し憧れを持って見ていたのかもしれない︒そこでは︑将一も先頭を切って走っていたが︑若いころの︑道上龍や中野信治や脇阪寿一の父親たちもレーサーとして集まっていた︒息子たちが一人前のレーサーになって活躍を始めた頃は︑これらの父親連中が童夢のピットに集まり︑まるで父兄会か同窓会の様相を呈していたが︑本当に息子の活躍が嬉しくてたまらない様子がほほえましい光景だった︒いまだにうるさく付272
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