レンジカップには行っていない︒ このように︑当時のレーシングカー作りに最も必要だったのが体力と精神的なタフネスさだったが︑鴻池は︑朝起きると窓の外を見上げながら︑﹁こんな曇りの日はこころが重くて仕事には行きたくない﹂とか訳の解らないことを言って起きようともしないので︑引きずりまわして工場に連れて行ったりしていたが︑反対に︑﹁作業を止めると限りなく不安が募ってきて止められなくなるが︑林さんは将来のことなんか考えないのか?﹂とか遠いところを見るような眼差しで問いかけてきたりするから︑私は﹁それなら解決法は作業を続けることだ!﹂と意にも介さず尻を叩き続けた︒ とてもクールでシ■イで淡々と上質な仕事をこなす魅力的な人柄で私の大好きなタイプの人間だったが︑その後︑ハヤシレーシングに行き︑私のPANICの製作を手伝い︑独立して﹁鴻池スピード﹂を設立した後︑理由は全く知らないが自殺してしまった︒ 慶治はその後︑家業を継いでレースからはきっぱりと足を洗ったので︑時々︑町中で出くわす以外に親交は途絶えていたが︑その間に慶治は家業を多方面に展開することに成功し企業規263田中慶治
元のページ ../index.html#271