やはり私にも負担はかかるし︑やはり︑恒例の資金不足に陥っていたから︑私が金策に走り回っている間は作業がストップするしかないし︑支払いが遅れて届かないパーツも多かった︒ 時間がなくなってくるに従って見えないところは後回しにして︑だんだん︑単なるショーモデルとして完成を急ぐしかなくなっていた︒エンジンも仮止め︑ペダルまわりも後回し︑もちろん配線などは端から手を付けない︒ そうして︑形だけ整えた﹁MACRANSA くさび﹂はぎりぎり第3回東京レーシングカー・ショーに間に合わせることができたが︑元々は︑ショー直後のレースに参戦するはずだったから今後に関しては問題が多い︒ その頃の私は︑すっかりとEVAからは離れて活動していたが︑EVAは徐々に業績が悪化しており︑この第3回東京レーシングカー・ショー︵1970年︶で起死回生のヒット作をデビューさせる必要に迫られていた︒ まあMにとっては︑会社がどんな状態でもレーシングカーさえ作れれば幸せな男だし︑昔と違ってそれなりの体制も設備も整っているのだから嬉々として新作に取り組んでいたが︑出257くさび
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