鐘とか映画のセットに必要な大道具が中心で︑看板や家具の一部の部品なども作っていた︒ 製品を見せてもらうと︑外形を整えているだけで構造材としては使っていないのでバックアップのフレームなどを必要とし軽くない︒しっかりとした構造設計をしてFRP自体で自立する軽量な製品にすべきだとかぶったら︑すっかり信頼されて︑それから︑そこのO社長が本当に親身に手助けしてくれるようになった︒ 以来︑その会社の品質向上にはいろいろと貢献したが︑そこの親会社というかクライアントの大道具の会社と話をするとFRP製品が活用できる分野がたくさんあり︑連続パターンの組み立て式の石垣とか忍者が走り回る土塀の瓦とか石畳とか︑たくさんの製品を提案し︑一部はO社長の会社の下請けとして生産を請け負っていたから︑徐々に仕事は拡大していった︒ だいぶ先の話になるが︑そんな仕事にも精をだしていた24歳くらいの頃︵1970年︶︑大阪万博が開催されることになり︑各パビリオンの製作物の引き合いが飛び交っていた︒ この頃は︑第3回東京レーシングカー・ショー︵1970年3月︶に向けてくさびの開発に取り掛かった頃とかぶっていたが︑資金調達などの必要性から頻繁に京都に戻っていたし︑こ219大道具と万博
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