継いで敏腕をふるっていた最中に︑火災で工場が全焼してしまったのを契機に閉鎖してしまい︑念願の専業画家生活が始まった︒当時は子供だったので焼け跡の悲惨な光景をうっすらと覚えているだけだが︑物心ついてから︑﹁保険にも入っていたのに再建しなかった﹂とか﹁すぐに番頭さんたちに再就職先を斡旋した﹂とか︑親戚の人たちのささやきを耳にするにつけ︑まるで継続の意思がなかったというか︑これ幸いのような撤退ぶりが窺■■■われる︒ 生涯︑﹁純粋な芸術家﹂をテーマに生きていたので︑世情に疎くお金に無関心でなくてはならなかった︒だから︑お金を貸すのはいいが︑返してもらう︑つまり︑それは他人からお金を受け取る行為だから嫌いというほど︑必要以上にきれい事を貫いていたため︑損することは山ほどあっても得することはほとんど無いような人だった︒ とにかく︑芸術家はかくあるべきという形に強くこだわっていたから︑もちろん︑ベレー帽は愛用していたし︑煙草は吸わないのに︑いつも机にはパイプと灰皿が置いてあった︒ 子供の頃の父の印象は﹁遠い人﹂だった︒なにしろ︑私が寝てから帰ってくるし︑私が学校に行ってから起きてくるような生活だったから顔を合わすことがない︒ヨーロッパに写生旅行10
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