童夢へ
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 私たちは︑確かに速いのは速いが︑この運転を続けていたらいつかは大事故を起こすのではないかと心配したり︑プロのレーサーというのはここまでの走りをしないといけないのかと感心したりしつつ︑とにかく︑いろんな意味で﹁おそれいりました﹂と言うしかなかった︒ 今となって思えば︑当時の鈴鹿サーキットは︑私はもちろん︑鮒子田も浮谷も横山も︑この頃︑鈴鹿詣でをしていたすべての人たちを育■■■んでいた母の胎内というか苗床というか︑単なる競技スペースを超えた︑人を育て未来を創造する場所だった︒ これは︑現在のサーキットとは一線を画した超然とした存在であり︑つくづく︑本田宗一郎さんの先見の明に感服するとともに︑この時代にこの場所を与えていただいたことに心より感謝したい︒そのうえ︑この時すでにホンダはF1への挑戦を開始しており︑この年︵なんと1965年だ!︶の10月には初優勝まで飾っている︒私が狭いガレージでFRPに悪戦苦闘していた同じ時に︑お金の持ち出しもままならないヨーロッパでF1グランプリを戦っていた人がいるのだから︑どうしても同じ時代の出来事とは思えないほど︑その頃のホンダは未来のまだ遥か先にいたように思える︒97鈴鹿詣で

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