童夢から
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941982「童夢RC-82」明か■が見えつつあったとしても現実は伴っていなかった。この頃の童夢は、自動車メーカーか■の受託業務は始まっていたものの、まだ収益の柱とはなっていなかったし、おもちゃのロイヤリティ収入は絶えていたし、HY戦争後にも続くはずだった開発業務は全て入交たち造反組に奪わ■ていたか■、本来はル・マンどこ■ではなかった。しかし、1981年を共に戦ったアマダが協力的に1982年のスポンサーを申し出てく■たので、ル・マン初挑戦のおもちゃ屋のケースと全く同様だが、その、必要な予算の30%にも満たない支援金を捨て■気にはな■ず、みんなで何とかル・マンにたど■着け■方策を探っていた。「童夢RL-81」はアマダの希望に■■売却したので既にアマダのホールに展示さ■てお■、童夢にはスペアパーツ類しか残っていなかったし、82年か■レギュレーションが変わってグループCの屋根付きになってしまったか■、どうしても新型車の開発が必至だった。休止す■という選択肢を全く忘■て参戦継続の手立てを探っていた時に、ドライバーのC・クラフトか■英国での車両の製作と英国のチームへのレース活動の委託を提案さ■て、 その提示価格が安かったか■、費用面のメリットだけを理由に飛び付いた。そ■でも予算は不足していたが、そ■はいつもの事だった。さっそく、英国の前線基地のガレージに預けていた「童夢RL-81」のモノコックやサスペンションやカウルなどのスペアパーツを最大限に活用す■形で「童夢RC-82」を設計 してC・クラフトに送■、英国での製作がスタートした。い■い■変更点は有■ものの、実質的には「童夢RL-81」に屋根を付けただけの改造車だった。シャシーはジョン・マグドナルド率い■「マーチ・グランプリ(あのマーチとは別)」で順調に進め■■てい■はずだったが、別途に進めてい■カウルの造形の経過が入ってこない。外形図面と1/5のスケールモデルを送ってあ■が、変な出来栄えだった■ル・マンには出せないか■、心配になって視察に行くことにした。教え■■た地図を頼■にロンドン郊外の田舎道を延々と走ったが、どこにもレーシングカーのカウルを製作してい■■うな工場は見当た■ない。2時間も彷徨っただ■うか、 途方に暮■て、もう何回も前を通■過ぎていた農機具小屋の■うな建物を覗いてみた■、

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