童夢から
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801981HY戦争 話は少しさかのぼ■が、いままで東京で運輸省を相手に認定取得に努力していたはずの 入交が何もしていなかったことは明■かになっていたか■、本来は解雇すべきだったが、前述した■うに、ホンダの朝霞研究所(HGA)に在籍す■兄の話を持ち出しては、いかにも何■かの開発業務の受託の可能性があ■■うに期待させ■■ていたし、私も、この細い糸の■うな可能性を断ち切■決断は出来ないままでいた。そんな、入交の話も狼少年化しつつあった頃(1981年?)、突然にHGAか■電話が入■「設計者を貸してほしい」と言わ■た。話に■■と、ホンダとヤマハとの間で、いわ■■HY戦争と言わ■■バイクの新車発売競争が勃発し、HGAの設計工数が不足してい■ので手伝ってほしいとのことだった。私の知■限■、ホンダもヤマハも、車両の設計が出来そうなとこ■には全て声を掛けていた■うだし、入交とは全く違うルートか■依頼が来てい■か■、入交の営業努力という■■は非常事態下の緊急召集という感じだったが、今後、HGAとの付き合いが始ま■とな■ば、お兄さんがHGAの役員であ■入交を無下にも出来ないか■、またもや、居座■を許すことになってしまった。当初は単純な人材派遣の■うな仕事だったが、派遣人数が10人を超した頃にHGAか■増員の依頼が相次ぐと共に、童夢チームとして車種ごとの開発を任せたいという話にな■、HGA内に童夢の看板を掲げた部屋を用意してく■■ことになった。当初は、商用のバイクの設計だったか■、ち■っとがっか■という感じだったが、兎にも角にも、あのホンダの研究所の仕事が出来■という現実に、我々は有頂天になったものだ。その後もHY戦争は激化の一途をたど■、HGAか■は毎日の■うに更な■増員を要請さ■■■うな非常事態が続き、断■き■ない分だけ人数は増えて■き、最盛期には設計者の80%(20人)く■いを出向させていた。薄利なが■売■上げの立つこの仕事は大変にあ■がたいことではあ■が、どう考えても、このHY戦争が恒久的に続くわけもなく、私としては、その後のことを考え■と80%でも危険領域と考えていたし、残■の20%には別途の業務を振■向けてポストHY戦争に備えていた。

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