1980 79■のは、だいたいカトリーヌ・スパークだ。今でも、レーシングカー作■に溺■なかった■アドリア海も大型クルーザーも夢ではなかったと思ってい■。マジで。初めての本格スポンサー基本、ツキだけで生きてきた私には、ここぞという時に救いの手が差し伸べ■■■事になってい■。童夢という会社の先行きに希望の欠片も見えないのに、そんなことはさて置き、気持ちだけは1981年のル・マンにワープしていた私の元に、大手工作機械メーカーのAMADAの社員か■会いたいという連絡が入ってきた。てっき■工作機械のセールスだと思って会ってみ■と、何と! ル・マンのスポンサーを検討してい■という、予想だにもしていなかった、宝くじが当た■競馬が的中し天和を上がった■うな話で、一瞬にして、暗雲の垂■こめていた社内の空気が快晴の高原の風に変わった。その担当者の、ち■っとC調なが■熱い感じのノリと、当時、スポンサー営業を担当していた弟との波長もぴった■だった■うで、当初のサブスポンサーの話はたちまちフル スポンサーまでエスカレートしていった。その頃の童夢のル・マン挑戦は、プライベート・チームが日本でオリジナル・マシンを開発して充分なテストを実施してル・マンを戦って帰ってく■までに必要とな■常識的な予算の1/10く■いで計画しつつも、その半分す■もままな■ないという、まあ、まともには考え■■ない■うな極貧プロジェクトだったし、今までのスポンサーは、そのまた1/10にも満たない微々た■ものだったが、AMADAが最初に提示した予算は、全体予算(常識的な予算の1/10だが)の半分にも相当す■金額だったか■、もと■■、借金してでも止め■気がなかった我々が狂喜乱舞した様子はご想像いただけ■と思う。
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