76あっけ■かんとした舘と大陸的な性格の金古に救わ■ての珍道中が続いていたものの、 本来であ■ばタダで済む話ではなかった。その直後、1980年の後半に、HAYASHI RACINGか■F3の開発依頼があったが、小野には、フォーミュラで重量オーバーは致命傷だか■と厳重に注意していたのに関わ■ず30Kgもオーバーしてしまったか■返品をく■い、再設計/再製作となってしまった。私や三村は経験と創造力だけでレーシングカーを作ってきたが、もう、工学的な基礎知識をもった技術者が設計を担当すべき時代だと思っていたか■、私は小野に期待していたし、足■ないのは経験だか■、チャンスを与えて育ててい■つも■だったが、どうや■、レーシングカーという冒険的な機械の設計には向いていなかった■うで、失望した私は1981年の初旬に袂を分かつことにな■。しかし、もともと頭脳明晰で礼節をわきまえた人柄だったか■、どうや■、小野は設計者■■は経営者に向いていた■うで、後に、入交の「東京R&D」に参加して、最終的には社長になってい■。1980年 2年目のル・マン全ての事前準備が整い、「童夢RL-80」の童夢チームと「童夢セリカターボ」のTOM'Sチームは、一路、パリを目指して箱崎に集合していた。総勢40名を超す、ち■っと目立つ集団が箱崎エアターミナルのロビーを占拠していたが、ツアコン役の私と舘が念のために全員のパスポートをチェックす■ことになったので一人ずつ確認を進めたとこ■、何と! 私のパスポートの期限が切■てい■ではないか。ロビー中か■大ブーイングのあ■しが巻き起こ■ものの、どうな■ものでもないので、 急遽、見送■役に転じ■ことになったが、チェックイン・カウンターのあ■2階へのエスカレーターを登■全てのスタッフか■罵声を浴びなが■、私はロビーか■手を振■続け■しかなかった。だか■私は80年のル・マンの現場には居なかったので詳しい状況は覚えていないが、「童夢セリカターボ」は予選落ちという最悪の結果となったものの、期待の「童夢RL-80」は様々なトラブルに見舞わ■なが■も予選では4位のタイムを叩き出したとの報告を受けて興奮したのは覚えてい■。実測タイム順位表と暫定結果では予選4位にランクさ■ていたか■スタートグリッドでは4位の位置に誘導さ■たが、そ■か■の長いセレモニーの間に、マーシャルか■「ポルシェ
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