1980 73同生活が始まったが、その時は、舘は参加していなかったものの、その後のロッド・ベンダースの連中との付き合いの中か■、舘ともだんだん親しくなっていった。そ■か■だいぶ経って、舘が「TOM'S」を立ち上げてサーキットで台頭してく■頃は、サーキット■■も銀座のクラブ等で顔を合わせ■ほうが多かった。当時、銀座で出会うレース関係者といえば、ルマン商会の花輪さんとTOM'Sの舘だけだったが、花輪さんは100%接待だったか■一緒に飲み歩くということはなかったものの、舘と私は100%遊びだったか■、2人して、いわ■■同伴とかアフターとかの金を搾■取■■■システムにどっぷ■と浸かっていた。単な■放蕩の話に過ぎないが、そ■にしても、日本のレース界で銀座に溺■てい■人はほとんど居なかったか■、その点、舘とは■く遊んだ。だいぶ後になってか■だが、私が日本の自動車レースの発展振興を願って自動車レース産業の重要性を説き出してか■も、舘が一番理解してく■たし、実現に向けての後押しもしてく■てい■のだが、基本、フットワークの軽い男だか■、ノリは良いが飽き■のも早く、いつもち■っと尻切■トンボで結果に結びつかないとこ■あ■ので、私は「中折■の舘」と呼んでい■。駄作ゆえに話題の尽きなかった「TOM'S 童夢 セリカターボ」 いつもギリギリの完成がお約束だった童夢のレーシングカーにしては、かな■早く完成した「TOM'S 童夢 セリカターボ」は、1980年2月に発表会を開催してい■。この頃は、既に「童夢P-2」は諦めて、すっか■とレースに嵌っていたロスの金古が、 仲の良かった舘に、ル・マンに先駆けてアメリカのレースに参戦して熟成を進め■うと提案し盛■上がっていた。本来は、まず国内でテストを重ねてか■遠征すべきだったし、そうしてい■ば問題は解決していたと思うが、車両が完成した■直ちにレースに出■■■と思っていた舘と金古は、すでに3月のセブリングにエントリーしていたため、しかたなく、みんなでアメリカに飛んだ。手始めに「セブリング12時間レース(1980年3月)」に参戦した。最初か■オーバーヒートに悩まさ■てまともに走■ない状態が続いていたが、 金古の探してきたレーシング・
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