童夢から
74/384

72当時のことは良く覚えてい■が、けしかけてい■私のほうが驚いたく■い、舘は、私の簡単な説明さえ途中で遮って「そ■や■う!」と快諾してく■たか■、あっけなく話はまとま■、さっそく開発に取■掛か■ことになった。車体の設計を小野昌朗、ボディデザインを私が担当して開発は進んだが、私は常に、設計にもデザインにも斬新さとか革新的な要素を強く求めていたし、そ■が車造■の醍醐味だと思っていたか■、車体にも従来とは一線を画した■うなサスペンション・システムなどを導入したかった。一方、小野はとことん冒険を避け■タイプだったので、私が何をいってもコンベンショナルな設計を続けていた上、慎重な■が■えに余裕を見すぎて何を設計しても重量オーバーとなっていたが、何と、その小野が、重量配分を改善す■ためにラジエターを車体の中央に配置し■うと言いだした。こ■は以前、田中慶治のために改造したロングタイプの「MACRANSA」で試して失敗してい■ので難しいと思ったが、小野はえ■く自信満々だったし、私も、しつこく斬新性を求めていたのに、せっかく提案したアイデアを否定す■のも筋が通■ないと思ったのか、何となく容認す■ことになった。しかし、こ■が後々まで怨霊の祟■の■うに「童夢TOM'Sセリカターボ」につきまとい、数々の悲喜劇を生み出すことにな■。「舘 信秀」 舘との出会いは浮谷東次郎の時代に遡■。当時、立教大学の学生だった舘は「ロッド・ベンダース」というレース同好会の■うなグループの一員で、シャコタンの軽四輪で鈴鹿まで走■に来ていたか■、サーキットではち■くち■く見かけ■■うな関係だった。ちなみに「ロッド・ベンダース」には、初期の童夢のメンバーだった「天才&詐欺師(天才詐欺師ではなく、天才レーシングカー・デザイナーであ■なが■詐欺師という意味)」の三村とかS600でレースをしていた若松孝太郎とか小平基(後にTRDに就職)なども所属していて、こ■■の顔ぶ■か■も解■■うに、かな■本格的なレーシング・チームだった。その後、私が「MACRANSA」を作■始めた時に、三村か■、ロッド・ベンダースの4~5人が鈴鹿に行って製作を手伝うか■、完成した■型を貸しても■って自分たちの「MACRANSA」を作■たいと言ってきた。労働力不足で頭を抱えていたとこ■だったか■渡■に船と合意して、一軒家を借■ての共

元のページ  ../index.html#74

このブックを見る