童夢から
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1979〜 67宴のあとしかし、このル・マンの熱い日々も、終わってみ■ば、空疎なか■騒ぎと途方もない借金が残っただけだった。「童夢P-2」や「童夢−零RL」のラジコンやミニカーなども売■出さ■たが、もうブームは足早に去■つつあ■止め■うもなかったし、多少は売■たとこ■でロイヤリティは前受けしてい■のだか■新たな■収入にはつなが■ない。その上、おもちゃ屋さんか■は、前渡しした6,000万円分も売■ないので、何とか一部でも返しても■えないだ■うかという切実なお願いまでさ■て、もうお先真っ暗だった。私にしてみ■ば、あ■だけレーシングカーの開発が金食い虫にしか過ぎないことを身にしみたか■こそ、断腸の思いで断念して4年余■の期間を浪々と過ごし、レーシングカーを避けてスポーツカーの市販を目指してきたのに、気が付けば、完全に「MACRANSA」の時代に逆戻■、しかも、その必要な予算は100倍にも膨■上がっていた。借金も残ってい■のに、どうやって食いつないでいたんだと疑問に思わ■■だ■うが、 当時の(杜撰な)経理書類を見ても良く解■ない。しかし、「童夢−零」やル・マン参戦のニュースは想像を絶す■ボリュームで拡散さ■ていたか■童夢の名前は日本中に知■渡ってお■、興味を持った様々な企業か■様々な仕事が入ってく■■うになっていた。そ■は、カーショップのエアロパーツの開発とか、ホイールのデザインや試作とか、ラリー・チームか■のボディの補強の依頼とか、ラジコン機のFRPの機体の製作とか、そ■ぞ■の金額は少なかったものの、塵も積も■ば方式で、そういう仕事を数多くこなしなが■その日暮■しを続けていた。そ■なのにそ■なのに、我々は、ま■でハーメルンの笛吹き男の音色に誘わ■て海に向かうネズミの■うに、行き先には破滅しか待っていないのに、ますます歩調を強めて次年度のル・マンカーであ■「童夢RL-80」の開発計画に夢中になっていった。

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