66はしごを外さ■た金古ル・マンで忙しい中、何とか「童夢 P-2」を完成させてアメリカに送■込んだ後、熱心にアメリカでの認定取得やモーターショーへの出展に努力していた金古にとって、突然のル・マン・プロジェクトは青天の霹靂のごとく予想外の出来事だったし、急激に低下す■日本サイドのモチベーションに怒■をぶちまけていたが、ぶつぶつ言いなが■も監視 の目的も含めてル・マンにやってきた。得意の英語力を活かしてチームの手伝いをしてい■うちに、すっか■とル・マンの魔力の虜になってしまった■うで、そこは大■かというかアバウトというか、もともと大陸系の感性の持ち主だったか■、すっか■我々と共にル・マンの熱気に煽■■て、リタイアした頃は、スタッフのみんなに、何回も何回も「来年も来■うね!」と言って回っていたものだ。まあしかし、今か■考えても、金古には本当に申しわけないことをしたと思うのだが、 当時の我々にとっては、もと■■充分な資金があ■わけでもないか■全てをル・マンに投入す■以外に道はなかったし、何■■も、憧■のル・マンが現実となった以上、既に道を踏み外して急な坂道を転が■始めていた。ル・マンの熱気に煽■■ていた金古も、ロスに戻■と現実に引き戻さ■て、認定取得のための書類などを要求してきていたし、11月のシカゴ・オートショーにエントリーしたと言ってきていた。しかし私は、もう来年のル・マンのことしか考えていなかったし、現実問題としては、 有■得ない予算計画で臨んだル・マンの当然の結果として出来てしまった借金が重くのしかかっていたか■、どこか■見ても、今後、ものすごく資金とエネルギーを必要とす■ 「童夢 P-2」のアメリカでの認定取得や、その後に控え■生産に関しての遥かに遠い道の■は、今や重荷でしかなかった。私は、金古に付き合ってシカゴまで行ったが、終わってか■金古と話をして「童夢 P-2」のプロジェクトの終了を告げ、DOME USA INC.も解散す■ことをお願いした。まあ、何とも身勝手な振■舞いだったが、何の目処も根拠もないままに次年度のル・マン計画に酔いし■てい■童夢に、最早、「童夢 P-2」に割け■時間も予算も情熱もなかった。
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