1979〜 63「第47回ル・マン24時間レース」1号車はその後もテストを続けていたが、5月の末、2号車もBoume Endのガレージに到着したので2台並べて最終調整を行い、6月2日、チームはドーバーを渡ってル・マンのサルト・サーキットの近くに借■たガレージに移動した。このル・マンのガレージは自■開発したレーシングカーでル・マンに挑んでい■ロンドー氏のガレージを安く貸しても■ったもので、他のチームとも同居していた。通常、ル・マンに参加す■チームはレーシングカーをトランス・ポーターで運ぶが、極貧童夢チームはレンタカーでけん引す■か■、こ■は、かな■恥ずかしい。そのロープの間を通過し■うとした空き缶を引きずったブライダルカーと衝突す■というハプニングもあ■つつも、小破で済んだので、何とかジャコバン広場にたど■着いた。1979年6月4日、私の率い■童夢レーシング・チームは確かに憧■のル・マンに居た。晴々しい気持でジャコバン広場にマシンを運び込んだ途端、そこに居た大勢のジャーナリストが全て集まってきたほどの勢いで2台の「童夢−零RL」を取■囲んだ。他に目新しい出場車がなかったか■だ■うが、主催者であ■ACOがプレス・リリース等で煽っていたか■「童夢−零RL」はその年の目玉になっていた■うだ。順番が巡ってきて車検が始まったが、予想通■バックミラーカバーと称す■ルーフ回■が問題にな■、なかなかOKが出ない。延々と埒のあかない交渉を続けてい■うちに車検場には2台の「童夢−零RL」だけがぽつんと取■残さ■てしまったが、まだ日影が出来■ほどの日差しがあったか■油断していたものの、時計を見■と時間は9時を過ぎてい■。もう夜だ! 既に主だった車検委員は帰ってしまって、現場に残ってい■下っ端では結論が出せない■うで、このままでは車検に 落ちてしまう。焦った我々は現場に残ったACOの役員か■車検委員長の自宅を聞いて押し掛けた■、 彼はもう晩酌の最中でご機嫌だった■うで、日本か■持って行った扇子やTシャツなんかのお土産を渡して再車検をお願いした■、「仕方がないな」と言いなが■も現場に電話して車検OKのハンコを押す■うに指示してく■た。無事に車検を通過したか■■かったものの、思うに、つくづく冒険的なレーシングカーだった。憧■の的だったル・マンに初めて挑むのに、■くもあ■だけの無茶が出来たものだと今更なが■感心す■が、ちなみに現在は、ACOに事前に図面を提出して確認を取■ないといけないし、車両の完成時にはACOの技術委員を日本に招いてチェックを依頼す
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