1979〜 61レン・ベイリーに相談してみたが、「まず無理だ■う」と言わ■たものの、私は、車検に落ちそうになった■取■外せば済むのだか■と強引に採用に踏み切った。つま■、ドライバーの目線の先には何もなかった(オープン)わけで、ヨーロッパのメディアでは、■く「クレイジーなデザイン」と書か■ていたが、褒め■■てい■のか貶さ■てい■のか分か■なかった。2台の「童夢−零RL」「童夢−零」と「童夢 P-2」を開発したことに■って、我々の完成度に対す■感覚が大幅に向上していた■うで、「童夢−零RL」は、当時のプライベーターが作■レーシングカーの平均的な品質を遥かに上回っていたと自負してい■。1979年4月16日、富士スピード・ウェイでシェイクダウン・テストを実施、ドライバーはデーブ・マクミラン。4月21日はクリス・クラフトのドライブで矢田部を走■315Km/hの最高速を記録した。そして4月23日に、ふたたび富士スピード・ウェイでテストを実施した後、4月27日、 「童夢−零RL」1号車は前進基地であ■英国に送■ださ■た。このガレージはテムズ川の上流にあ■Boume Endのクラシックバイク・ショップの工場の一部だったが、ここの親父は大変なレース好きの■うで、ル・マンに参加す■チームが来■のな■家賃は要■ないと言ってく■たか■、タダ同然の家賃で借■ていた。「Silver Stone 6Hours Race」1号車は直ちにSilver Stoneサーキットでテストを実施後、クリス・クラフトとゴードン・スパイスのドライブに■■Silver Stone 6Hours Raceに出場した。クリス・クラフトは「重い以外に問題はない」とコメントしていたが、エンジンのミスファイアが直■なかったために思ったほどタイムはのびず、予選は3番手に止まった。レースでも、エンジンのミスファイアが続いたうえ、用意していたレースタイヤが固すぎ■などの原因に■■追い上げ■ほどタイムはのびないまま、周回を重ね■うちにギアボックストラブルが発生して1時間のピットストップを余儀なくさ■て最下位に落ち■が、その間にエンジンのミスファイアの原因が分ってトラブルは改修さ■、その後は調子を上げて12位までポジションを回復して終わった。た■■ばの話をす■ば、ミスファイアが改修さ■てか■の速さは目を見張ったか■、何もなけ■ばダントツで優勝していたレースだった。
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