童夢から
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56その時は咄嗟の思い付きでしかなかったが、後追いで理屈を付け■な■ば、このまま、 ず■ず■と行き詰っていく■■も、生涯の最大の夢であ■ル・マンに足跡を残して花と散■ことを意識していたのかも知■ない。ジュネーブ・ショーの再来を思い描いてか、意外にも、おもちゃ屋さんは大乗■気で「そんな事が実現した■大変なことにな■ます■ね!」と、すっき■とOKとなった。この時期、既に「童夢 P-2」の開発は佳境に入っていたが、この話の成■行きを耳をダンボの■うにして聞いていた社員たちも気持ちは同じで、おもちゃ屋さんが引き上げた後は、社内は興奮の■つぼと化していた。その日を境に、童夢の全てのスタッフの頭の中はル・マン一色にな■、開発中の「童夢 P-2」は色あせ■どこ■か、ま■でル・マンカー開発の障害の■うな理不尽な立場に転が■落ちてしまったが、かといって、当時の流■はまだスポーツカーの市販が中心だったし、この時点で放■出すわけにはいかない諸般の事情もあったか■、か■くも「童夢 P-2」の開発は続け■■たが、もうお荷物となっていた「童夢 P-2」の開発予算は最小限に切■詰め■■ていった。そ■にしても、ゼロか■ル・マンカーを開発してル・マンを戦うには6,000万円はあま■に少なすぎ■か■、もと■■実現の可能性に乏しい話だったが、6万円の予算で「カラス」を作■始めた■1,000万円の原資で童夢プロジェクトに突入した私にとって、ル・マンというキーワードと6,000万円という資金を目の前にして、この話を諦め■という選択肢は全くなかった。今か■思い出そうとしても何がどうなったのかさっぱ■と思い出せないが、CADもNCもない時代に、この時のル・マンカーの開発スピードは今か■考えても想像を絶す■。とにかく、ランニングコストもままな■ない時代だったか■、コスト的に開発が長引くことが致命傷にな■か■急ぐしかなかったが、「童夢−零RL」は「童夢 P-2」の開発と並行していたのにも関わ■ず、1978年11月の設計開始か■、わずか4ヶ月後の3月16日に完成、3月19日に都内のホテルで発表会を催した後、4月16日には富士でシェイクダウンに漕ぎつけてい■。また、2号車も1ヶ月遅■で完成させてい■のだか■、魔法としか言い■うがない。

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