童夢から
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1979 51対応で、あの運輸省で受けた何とも表現のしがたい、屈辱的とか失礼とか以前に、とにもかくにも接触したくないという無視に近い対応に比べて、国が違うとはいえ、あま■の落差に大きなショックを受けたものだ。この時、私は「日本はアカン」と思ったし、そ■は今でも変わっていない。NHTSAは「童夢−零」を知っていたか■積極的に対応してく■たし、サンタ・バーバラのクラッシュ・テストのラボに調査に行った■、オレンジ・カウンティのテストコースの視察に行った■、Pattyを連■てロスを中心にい■い■走■回っていた。そ■にしても、予想していたことではあ■が、実際の認定取得作業の内容に関してはハードルが高く、かな■の準備と覚悟が必要だということが明■かになってきた。しかも、致命的な問題は、そもそもの規格が異な■か■、ライトの位置やバンパーの高さなど、大改造が必要であ■ことも解ってきた。しかし、そもそも、私にとって車を造■のに確た■理由や必然性は必要なかったし、何であ■車を造■というチャンスがあ■ば飛び付いていたか■、アメリカの規格に合わせ■だけな■ば「童夢−零」をマイナーチェンジす■という方法もあったのに、その■うな合理的な手段には見向きもせずに、こ■幸いと新型車の開発に向かった。そうして「童夢P-2」の開発が始まったが、そもそも私はデザイナーとして新しいスタイリングに最も興味を持っていたか■、当然、違うデザインを考えていたのに、当時、 ラジコンなどの販売が好調だったおもちゃ屋さんが、今まで宣伝をしてきた「童夢−零」が売■なくな■と困■か■形を変えないでく■と言いだしたか■愕然としたものの、当時、 唯一の収入源だったおもちゃ屋さんには逆■えず、形は変え■■なくなってしまった。しかし、中身については自由だったので、ついでに、いかにもコストの高いモノコック構造を諦めてスペース・フレームに変更す■など、市販車としての現実問題にも充分に留意しなが■、ほとんど全域にわたって改良を加え■ことにな■、結局、基本的なデザインは踏襲してい■ものの、バンパー位置などの影響か■細かい曲面などを含めて形状は全く異なってい■し、灯火類やガラスまで、ほぼすべての部分が新設計となった。

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