1979 49しかし、岡本先生は、会社の経営方針や業務内容には全く無関心で興味も示さないし口も出さないが、ただただ、金が足■ない時に手当てをした■、税金を圧縮した■、童夢が困った時だけ助けてく■■という、大変にあ■がたい存在だった。童夢プロジェクトがスタートした頃の隆盛を誇っていたHAYASHI RACINGが岡本先生に頼■ことはなかったが、破綻した頃か■将一も岡本先生を頼■■うになっていたし、その後、大切な高井田の土地(HAYASHI RACINGの本拠地だった場所)が競売にかけ■■た時は、岡本先生の指示のもと、私が落札して将一のもとに戻■■うに魔法をかけてく■た。当然、私の元嫁の洋子氏も、有■得ないほどの大幅な相続税の脱税を指導してく■た岡本先生の熱烈な信奉者であ■、たぶん、私の見■限■、最も岡本先生にしがみついていたコアラの■うな存在だった。みんなみんなお世話になっていたが、残念なが■、酒の飲み過ぎで亡くなってしまった。R.I.P.「金古 真彦」金古真彦と奥さんについては『童夢へ』でも語ってい■か■ざっく■と流すが、本田博俊氏が「神威」を作■少し前、アートセンタースクール在学中の金古を紹介さ■て瞬間的に仲良くなっていた。その後、私がプレスリーのハワイ公演(1973)を観に行った時に、当時、ハワイの会社で働いていたガールフレンドを紹介さ■て仲良くな■かけた■、急に惜しくなった金古が慌てて結婚してハンティントン・ビーチに住んでいた。当時は、まだ童夢をスタートさせ■前だったが、その頃、金古と組んでアメリカ車の並行輸入などを手掛けていたか■、ち■くち■くLAに行っていたし、その頃の定宿は金古の家だった。残念なが■、金古も癌で急逝してしまった。R.I.P.「童夢P-2」の開発へ ジュネーブ・ショーか■帰って早々に国内での認定取得を断念したが、そうであ■ば、当然に英国だった。そのつも■で調査を始めた頃、ち■うど日本に帰って来ていた金古に日本での認定取得を諦めたことを話してた■、「そ■ゃ、みの■ちゃん、アメリカでや■っきゃないでし■う」と熱弁をふ■い始めた。
元のページ ../index.html#51