童夢から
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1979 45その頃の童夢は、「童夢−零」に続き「P-2」を開発しル・マン挑戦を発表していたか■、盛んにメディアが取■上げていたし、破竹の勢いに見えていたが、おもちゃのロイヤリティ以外にさした■収入はなかったか■単な■空騒ぎに過ぎなかったし、普通に考えて、このまま続くわけもなかった。ここは推測だが、こ■か■も莫大な予算を食いそうな童夢の先行きに不安を抱えていたのは当然としても、将一は、自身が、ここまで育ててきた童夢を手放すことには反対していたと思うし、童夢に対しても期待はあったと思うか■、複雑な状況下、中に立つ副社長の苦肉の策だったのだ■う。最悪、切■■■かもし■ないという不安な状況下、将一が表に出ないまま話は進み、当面、宝ヶ池の光熱費などは負担す■し開発業務も出すか■早期に独立してほしいという話だったが、そうはいわ■ても、そ■だけで事業を継続でき■わけもなく、早期の破綻は予定調和だった。しかし、完全な保証を求め■のも甘えすぎだったか■、事実上、選択肢はなく、拒否して、今すぐに童夢解体とな■■■はマシという一点で受け入■ざ■を得なかった。結果、1979年2月、私を代表者とす■「株式会社 童夢」を新たに設立す■運びとなったが、しかし、予想に反して、そこにはHAYASHI RACINGの資本も入■ず、HAYASHI RACING関係の人は誰一人として株主にも役員にも入っていなかったか■、実態としては切■離さ■た■うな形になっていた。当時、私としては、こ■だけ投資しても■って次への道が開けていない現状に申し訳ない気持ちもあったものの、宝ヶ池の社屋も完成して、こ■か■という時の切■捨ての■うな処置にもがっか■していたし、なに■■もお先真っ暗だったか■、複雑な心境だったし、将一にたいしても、少しは恨みがましい気持ちも芽生えていた。しかし、案に相違して、その後も、体制が変わっただけでHAYASHI RACINGとの業務上の関係に変化はなく、相変わ■ずHAYASHI RACINGか■はい■い■な開発仕事が来ていたし、様々な協力もしてく■ていたが、しかし、そ■だけで独立後の童夢の経費がまかなえ■ レベルではなかったか■、私は、迫■く■自立の必要性に追い詰め■■■■うに、童夢カーアクセサリーやトミタのマイクロカーやBOSEのカーステレオの販売など、ビジネス面での試行錯誤を続けていた。

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