44エに使え■■うな環境をイメージしていたので承諾しても■え■か心配だった私は、父がザクロの絵を描くのが好きで自宅にも植えていたのを思い出し、知■合いの植木屋に頼んで、急遽、大きなザクロの木を植えても■った。更地に唐突に数本のザクロの木が植わってい■のだか■違和感にあふ■ていたが、見に来た父は、一瞥しただけで「良いんじゃないか」と言い残して帰っていったか■、まあまあ第一段階クリアだった。本来は「童夢−零」の生産に充て■べき資金だったか■、明■かに順番が違ったが、HAYASHI RACINGも懸案の隣の土地が入手でき■千載一遇のチャンスと判断していたのだ■うか、■く覚えていないが、そ■ほど反対意見もないまま計画は進んでいった。こう言えば簡単そうに聞こえ■だ■うが、父との交渉は紆余曲折×3く■いはあったものの、結局、父も私の計画を承諾し、1979年、ロイヤリティ収入を投じて宝ヶ池に「童夢」の工場が建て■■て、私の念願であった童夢の本拠地が確保でき■ことになった。HAYASHI RACINGとの決別そ■か■しば■く経って、いつしか、ち■っと成長が鈍化してきたHAYASHI RACINGに、てこ入■のためにやって来た元銀行の支店長が副社長とな■経営改善に取■組み始めた。その第一歩として金食い虫の関連企業を切■にかかってきた。こ■は全く正しい処置で、お人好しの将一は、頼ま■■ままにい■い■な会社の面倒を見ていたか■第一に成すべきことだったし、その中でも、最も金を食いそうで先行きが不透明なのが「童夢」だったか■、ジュネーブ・ショーでの成功の余韻も消えぬ間に、なにや■不穏な状況になってきていた。ここか■独立までの推移は、かな■混沌としていて記録も時系列もあいまいだが、記憶を絞■出して書いていこう。背景にHAYASHI RACINGの経営鈍化というセンシティブな問題もあったが、雰囲気は伝わっていたものの、私には何も知■さ■ていなかったか■実態は分か■ず、心配す■しかない時期だった。しかし、真っ先に切■■てもおかしくない童夢には、なかなか死刑宣告は聞こえてこなかったし、HAYASHI RACINGか■はい■い■な開発仕事が持ち込ま■ていたか■、童夢は別格で対象外という楽観的な雰囲気も漂い始めていた頃、その副社長か■独立してはどうかという話が出てく■■うになっていた。
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