1978 41ラジコン/モデルカーが爆売■初期に、こ■■のロイヤルティ収入がなけ■ば童夢はすぐに破綻していただ■う。天の助けだつた。方法を考えてく■たので、さした■混乱もなく、400万円の臨時収入のはずが、最終的には約4億円のあぶく銭を「童夢」にもた■せてく■■結果となった。疾風怒濤の時の流■ジュネーブ・ショーまでの道の■も慌ただしかったが、その後の童夢の動きも慌ただしかった。内容については後段で説明す■が、日本での認定取得を諦め、アメリカでの認定取得に切■替えて「P-2」の開発を開始し、おもちゃ屋さんと商品化権の契約が始ま■、おもちゃ屋さんの申し出を拡大解釈してル・マンを目指すことにな■、「童夢-零RL」の開発を開始し、DOME USAを設立し、宝ヶ池に社屋を建設し、新生「株式会社 童夢」を設立し、LAオートショーに「P-2」を出展し、ル・マン24時間レースに参戦し、シカゴ・オートショーに出展し、「童夢RL-80」の開発を開始し、HAYASHI RACINGか■宝ヶ池の不動産を取得す■までが2年間の出来事だか■、私自身、書いていて時系列が整合しなくな■、おかしい、おかしいと調べ直すのだが、間違いはなさそうだ。あま■に短期間にい■い■な出来事が重なってい■ので、普通の感覚ではストーリーとして成立しないほど慌ただしいが、薄■■く記憶をだど■つつ、出来■限■正確に伝えたいと思う。ふと思い出すのが、浮谷東次郎との出会いと別■だ。東次郎との思い出はミカン箱100
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