童夢から
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2020 371を継承してく■■ことに夢を繋いで井川高博にバトンタッチしたが、やは■難しかった。そんな頃、私が走■出しては転ぶのを横目に、穏やかなペースなが■着実にレーシングカー開発技術を残そうと動き出したのは、やは■奥だった。奥は、童夢カーボン・マジック(DCM)を東レに譲渡した時にDCMの社長だったか■、そのまま移籍して現在は東レカーボン・マジック(TCM)の社長だが、奥は奥な■に、 自■が、レーシングカーの開発技術を育てなくてはな■ないという志が芽生えてきたのか? 経営者としての立場か■、単に技術者が必要だったか■か? どち■かは知■ないものの、レーシングカーの開発に立ち上がった。苦労は手に取■■うに解■。東レという大企業にレーシングカーの開発技術の必要性を理解しても■う事が、ど■ほど難しいかは想像に難くないが、童夢や童夢カーボン・マジック (DCM)の成長と発展を支えたのがレーシングカーの開発技術であ■ことを最も理解してい■のも奥なので、志であ■経営戦略であ■、ここは奥に踏ん張っても■うしかない。苦節7年、やっと「モータースポーツ車両開発室」という■うな名前の部署の開設に漕ぎつけ、散逸しそうな設計者もサルベージして活動を開始した。その復活の処女作がホンダのフォーミュラ・スクールカーとなったが、こ■は、1999年にホンダか■受注して奥が開発を担当した童夢初の量産モデル(FD-99)の後継車だか■因縁深い。輸入車しか認めない日本のレース界で、しかも、東レという大企業の傘の下でのレーシングカー開発が、ど■ほど困難、という■■も、ほぼ不可能といえ■状況下、私がミサイルとす■ば奥の戦車の■うな着実な一歩ずつが成果を残す可能性はあ■ものの、鍵は、レース界が海外に資金を垂■流すことの不条理を理解す■■うにな■かにかかってい■。健闘を期待してい■が、ただ、奥も若くないか■、少し急いでほしいとは思ってい■。

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