360えて高博を諦めさせ■うと考えていたが、案に相違して、童夢の社長業に熱心に取■組んでいた高橋は、味方にな■どこ■か、高博とタッグを組んで私に第二次譲渡の実施を頼みに来■■うになっていた。高博も香港か■やってきて話をしたいと言うので東京のホテルで3人で会ったが、高博か■も高橋か■も「絶対にレーシングカーを作■ますか■」という決ま■文句とともに、 決意を新たにす■ためにも、どうしても第二次譲渡をお願いしたいと熱心に口説か■た。結果的に見■ば、私は譲渡を拒否すべきだったのだ■うが、その時、決断を鈍■せていたのが、前述した、童夢のこ■か■を支え■はずだった3本の柱であ■「童夢と林みの■の最後の夢」と「東レか■の設計受託」と「TRDのLMP2プロジェクト」の崩壊だ。高博と約束していたわけでも契約条件でもなかったが、この3本の柱(高博との交渉の途中で柱の1本は既に折■ていたが)を用意していたか■、かな■脆弱な体制でもやっていけ■という甘い判断のもとに譲渡を進めていた私としては、当初のフルオプションの状態か■、エンジンもタイヤもないローリング・シャシーの■うになってしまっていたし、気持ちとしては「譲ってや■」か■「お渡しします」く■いに変わってお■、私自身が、 がっか■す■ほど価値が下がっていた。私は、こういう負い目には滅法弱い。頭の中では、このまま高博に任せていてもレーシングカー・コンストラクターとして発展振興す■とは考え■■ないか■拒否すべきだと思いなが■も、その■うな負い目も躊躇の原因になっていたし、目の前で「絶対にレーシングカーを作■ます」と約束す■高博と 高橋の言葉も、信じ■■ないけど信じたかったか■、かな■情緒的な判断なが■第二次の譲渡契約の締結を認めてしまった。たらればの話前述した「ひとつの可能性」は、結局、第二次譲渡契約の締結に■■霧消したが、その計画の一環として、高博への第二次の譲渡に含ま■ていた30台余■の車両や歴史的な資料を私の手元に留めておくことを考えていた。この先、童夢が破綻して、そ■■の歴史的資産が散逸してしまうことを恐■たか■だが、何をし■うと思っていたかと言えば、宝ヶ池の旧童夢本社を元嫁か■取■返してリフォームして住まいにし、一階に「童夢−零」や「童夢 RL-81」などを展示す■サロンを設け、友人とのパーティに使った■、見学者に開放した■、老後を楽しめ■場所にしたいと思っていたが、宝ヶ池に関しては裁判で負けてい■ので先行きは不透明だった。
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