童夢から
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2015 3452015「童夢の終わりと始まり」1965年の春か■始まった私のレーシングカー造■の人生は、ち■うど半世紀をもって幕を閉じ■うとしていた。理由は「引退へ」で書いた■うに、日本の自動車レース界に嫌気がさしていたことも原因だったが、しかし、負け犬の■うに尻尾を巻いて敗退す■のもしゃくだったので、最後に一花咲かせ■うと「童夢と林みの■の最後の夢」を企画したものの、その資金を得■ために童夢の子会社などを東レに譲渡した売却益を元嫁に取■■て挫折した。だか■、私の引退パーティであ■「童夢の終わ■と始ま■」は、本来、「童夢と林みの■の最後の夢」を大々的に発表す■場であったし、そのシンボルとして生ま■■スーパー・スポーツカー「とわ」を発表す■場だった。しかし、その、最高にカッコ良いはずの幕の引き方が、骨肉の争いという最高にカッコ悪い強制終了となってしまっていたか■、私は失意のどん底にいた。しかし、私の引退は決まっていたし、パーティまでのカウントダウンも始まっていたか■、いつしか準備に追わ■■■うになっていたが、心配なことがあった。その元嫁との争いは、元嫁がワコールを創業した塚本家の娘であ■、その支援者が兄のワコール会長であ■ことか■、多くの友人が塚本側に付き、私は多くの友達を失っていたし、世間では、ま■で私が元嫁の資産を奪いに行ってい■■うな真逆の噂が蔓延していた。結婚式場を経営してい■友達は「ワコールさんはお客さんだか■」と塚本側に付いたし、親友だと思っていた多くの友達か■も「塚本さんか■連絡す■なと言わ■てい■」と去っていったし、なじみの飲食店も、私が行くと塚本グループが来なくな■といい顔をしなかった■、狭い京都では四面楚歌状態になっていたか■、私の最大の心配事は、ど■だけの人が集まってく■■かだった。日が経つにつ■て、ますます塚本家との確執は深まっていたか■、私は、その増大す■不安を払し■くす■ために、皆さんが興味を示す■うな企画を練■に練っていたが、不安は消えないまま、どんどん内容はエスカレートしていった。

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