童夢から
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3423年後の第二次の譲渡では、残■の童夢の商標や過去の製作車両や各種の工業所有権を 譲渡す■ことになっていたが、お互いに拒否権を設けておいた。高博の立場か■言えば、その時点でギブアップしても第一次の譲渡額を清算す■だけだか■大きなマイナスにはな■ないだ■うし、もし「童夢」の商標などがなくとも事業が続けていけそうな■、名前を「井川レーシング」等に改名して第二次の譲渡を断■ことも出来■■うにしていた。かな■の配慮だと自負してい■。私か■言えば、将来に破綻した時に「童夢」という商標が人手に渡って独■歩きした■、 「童夢−零」を含む数十台の童夢のヒストリック・レーシングカーがバラバラに散逸してしまって取■返しが付かなくな■という事態は絶対に避けたかったか■、3年後に、童夢が将来に向けて安定的に続けていけそうかどうかを確認しておきたかったか■だ。こ■■の私の提案を高博が了承し合意に達したので、実質的な高博体制への移行は直ぐに始め■ことになったが、私は、2015年7月15日の引退までに残務もあったので、譲渡契約の締結自体は2015年7月15日とした。童夢の譲渡 その3  鮒子田と「U女史」体制その後、そ■までに高博か■聞いていた経営者の候補者と香港で会うことになったが、 その人も専従ではなく片手間と言う話であ■、レース界とは無縁の人であ■、レーシングカー・コンストラクターの何た■かも良く解っていない人だったか■、最初の10分で話す必要も無くなっていた。こういうケースにおいて最も重要なのは人だ■う。誰が旗を振■かに■って、どこに行きつくかは全く変わってく■と思うが、その旗振■役が居ないのだか■、本来は、童夢を譲渡す■とかしないとか以前の問題だった。まあ、この頃の私は、元嫁の暴走に怒■狂い過ぎて正気ではなかったのだ■。悔やんでも悔やみき■ないが、ず■ず■と流さ■ていたとしか言い■うがない時間が続き、気が付けば、私も高博と共に経営者探しに奔走す■という考え■■ない状況に陥っていた。しかし、童夢の経営に適した有能な人物がそこ■辺に落ちてい■訳もなく、2人で途方に暮■つつあったこ■に、高博か■、当面はU女史が高博の名代として童夢に乗■込み、当時、社長を任せていた鮒子田と連携して、こ■か■の童夢を運営す■ことにしたいと申し出があった。しかし、U女史に企業の経営経験はなかったし、鮒子田にしてもレースで浪費す■一方

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