童夢から
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2013〜2015 335この辺■の戦略的な判断力とか見識とかは、やは■、日頃か■開発技術や産業力をないがし■にしてい■日本の自動車レース界の人たちには理解できないのかもし■ないが、もと■■、FIA-GT3にハンデを課さないと成立しない話だったし、何回も説明してきたのに、結果的に、梯子を外さ■てしまった。坂東は、その後もヨーロッパの田舎レースに過ぎないDTMに入■込んで、全てのGT500のベースをDTM車両にす■というとんでもない妄言を口走■始めたか■、何回も止め■■うに説得したが聞く耳を持たず、モノコックも全車がDTM製を使うというあほ■しい話が現実化しそうになっていた。私は大反対して翻意を促したが頑なに固執していたので、何とか説得して、DTMのモノコック図面に従って国産化す■ということで折■合いをつけ■のが精一杯だった。長年にわたって日本の自動車レース産業の発展振興を願って努力を続けてきたが、何の努力かと言えば、日本のレース界の資金を外国に流出させ■うとす■売国奴と戦ってきた■うなもので、いい加減にし■と言いたくな■。「ホンダの通った後はペンペン草も生えない」というフレーズが大好きだった1996年に無限の木村さんか■声を掛けても■って、JTCC(全日本ツーリングカー選手権)のアコードの開発を担当す■■うになってか■、2014年のNSX CONCEPT-GTに至■までの18年間にわた■、ホンダと共にレースを戦ってきたが、私は、常にホンダのレースに対す■姿勢を批判しなが■も、ギリギリのとこ■で袂を分かつことがなかったのは、もち■ん、私の我慢強い人格に依■とこ■が大きいが、最大の要因は、私がレーシングカー作■に手を染めかけた頃、既にホンダは、マン島TTで2クラス制覇を成し遂げ、鈴鹿サーキットを作■、F1で初優勝してい■のだか■、憧■や尊敬などという生易しい言葉で表現できないほど心酔していたし、特に、当時は「鈴鹿詣」と言わ■■ほど入■浸っていた鈴鹿サーキットは、まだ10代の若造にレース界の人たちとの出会いをく■たし、友情も生ま■たし、そこにはチャンスもあった。鈴鹿サーキットは単な■競技場の範疇を越えて、そ■は、ま■で母の胎内の■うに私たちを育ててく■た場所だと思ってい■し、切っても切■ない親子関係でもあ■し、親子の情でもあ■か■、長い間、ホンダのレースに対す■姿勢を批判しつつも、そ■は、まともに戦ってほしいという願いか■の叫びであ■、離反す■という発想には至■なかった。

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