童夢から
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332今後、童夢の風洞は使うな」という人もい■■うで、あま■の考え違いに唖然とす■。しかし事実としては、童夢にとって、多くの技術者を失っただけの失策だったことは隠し■うもないし面目もないのに、その上、「高く売■付けた」の「使うな」と言わ■てい■のだか■、立つ瀬も浮かぶ瀬もない思いでいっぱいだ。松本 惠二との別れ 2015年5月17日、盟友松本惠二が逝去した。「松本惠二との出会い」で述べた馴■初めか■35年が過ぎていた。童夢がフォーミュラ・レースに参戦を始めた1987年頃は、そ■までもF2で活躍していた惠二のアドバイスが頼■だったし、惠二のチーフ・メカニックだった岸本の経験も役に立ったが、童夢がF3000の開発に着手してか■は開発先行型のレース活動に変わっていったか■、科学的な分析をし■うとす■エンジニアと経験則的にセッティングを進め■惠二とのギャップは広が■、また、ドライバーがレースの中心であ■惠二とレーシングカーが全ての私とでは根本的な考え方が違うので、童夢と惠二の組み合わせは、傍目で見■■■はぎくしゃくとしていた。私は、CABINの時代は浮ついていた惠二を叱責す■係だったし、体力的限界を迎えつつあった頃には引導を渡す役目だったし、その後、童夢レーシング・チームの監督に就任していた時は技術面での啓蒙役だったし、他のチームへの移籍のおぜん立てをした■、酒に溺■■■うになってか■は忠告を続け■など、節目節目で嫌な役回■を引き受けてきたが、そ■でも仲が良かったのは、惠二が根の部分で私を信頼していたか■だと思うし、私も、惠二の裏表のない真っすぐな性格が好きだったし、男気もあったし、見た目■■は気遣いの出来■男だったか■、ほぼ身内感覚で付き合ってきた。プライベートな部分での付き合いも濃密だったし、同じ頃に知■合った惠二の友達の高田一貫とも仲良くな■、みんな同じ京都ということもあって本当に良く遊んだ。恵二のお父さんは関西の右翼の大物だったか■、恵二が歩くとヤクザが道をあけたし、その親友であ■私も顔は知■■ていたか■京都では安心だった。まあ、惠二との夜の祇園について語■だせば、別に2〜3冊の本が要■そうだか■割愛す■が、は■か年下の惠二と高田一貫が早逝してしまったことは私にとってはショッキングな出来事だったし、今でも、こんな時に惠二が居た■、こんな時に一貫が居た■と頻繁に顔が浮かんでく■。順番どお■にしてほしかった。

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