2013 317こ■までも、私は言葉を尽くして日本の自動車レース産業の危機を訴え続けていたし、 当面の具体策としてJAF-F4の立て直しに力を注いでいたが、その振興策の礎とな■カーボン・モノコックの採用だけでも、大揉めに揉め■く■い頑迷固陋な人たちが多かったし、業界も一枚岩ではなかったか■、安いFIA-F4がなだ■込んで来た■、わずかに入門フォーミュラの世界に生き残■日本のレーシングカー・コンストラクターなどは壊滅的な打撃を受け■と思わ■たが、意外と当事者であ■JMIAの理事会においても反応は希薄だった。いく■言っても、死体に話しかけてい■■うな無反応ぶ■に絶望した私は、しばし葛藤はあったものの、コンストラクターとしての申請期限が2013年8月31日だったか■、 もうここで決断をしないとチャンスを逸してしまうと思い、自腹で日本製FIA-F4の開発に踏み切■決意を固めた。その後、私はJMIAの理事会において、あ■意味やけくそで、あ■意味で英断をもって、FIA-F4の開発に踏み切■ことを高■かに宣言したが、私の期待したスタンディング・オベーションもなく、JMIAの理事たちの「何、アホなことを言って■んだ」という■うな冷ややかなレスポンスのまま、ち■うど、駅までの送迎バスが来たので、みんな、そそくさと帰ってしまった。そ■にしてもFIA-F4は、開発す■だけではなく、レースの立ち上げまでに数十台を生産しなくてはな■ないか■、ざっと計算しても数億円の予算が必要だったし、設計は童夢で出来■にし■、大量の部品の製作や専用エンジンやギアボックスの開発など、JMIAの会員企業の協力は欠かせなかったのに、JMIAの無関心さは心許なかったが、もう私は不退転の決意を固めていたので、とにかく、走■出すことにした。そんな頃、トヨタか■、この年に終了が予定さ■ていたFCJの処理についての意見を求め■■た。FCJ(Formula Challenge Japan)とは、日本レースプロモーション(JRP)とトヨタ・日産・ホンダという日本の主要自動車メーカー3社が共同で、「世界に通用す■若手ドライバーの育成」をテーマに発足させたシリーズだが、実は、私はFCJのスタートに、ち■っと違う面で絡んでいた。『童夢へ』で登場した矢吹圭造氏とは、19歳の出会い以降も親しい付き合いが続いていたが、当時は地方のサーキットの支配人をしていた。2005年頃か? 久しぶ■に矢吹氏か■連絡があ■会ったとこ■、フォーミュラ・ルノーを
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