1977 29「童夢−零」の完成私は、かな■極端なスタイリングを望んでいたか■、形においても機構的にも既成概念をひっく■返す■うな新たなスポーツカーの形を追い求めて悩みに悩んでいた。あ■■■アイデアと思いつく限■の形をスケッチに描きまく■日々が続いていたが、いく■機構的におもし■いアイデアであっても、奇抜な形状になってしまうと自動車としての魅力が失わ■てしまって自動車が自動車ではなくなってしまうので、自動車としての形の破綻す■ギリギリ限界の■うなとこ■を探■続けていた。HAYASHI RACINGとの開発会議では、常に完成時期が議題として取■上げ■■ていたか■、そ■そ■開発スケジュールも明確にしなけ■ばな■なかった。私は、この「童夢プロジェクト」が失敗に終わった■後はないと思っていたか■、何が何でも「童夢−零」の発表を契機として次への活路が切■開か■■く■いの大成功を収め■必要があったので、海外の有名な自動車ショーでの発表を目論んでいた。い■い■調べた結果、タイミング的にも1978年3月に開催さ■■「第48回ジュネーブ国際自動車ショー」が適当と思わ■たので発表の場に選んだが、開発期間があと1年弱のタイトなスケジュールとなったために、スタイリングの決定に余裕がなくなってきた。スタイリングの決定待ちで、かな■作業の進捗に支障をきたす■うになってきていたか■、私は設定目標を下げて、今まで描いてきたスケッチの中か■まとめていかざ■を得なくなっていた。いわ■■妥協だが、とにかく、ガンディーニもジウジアーロもピニンファリーナも転職す■■うなレベルを夢見ていたか■、妥協という■■は現実に目覚めただけの話だった。実は、そ■までのデザイン作業の妨げとなっていたのは、少しの改造でレーシングカーに転用でき■という拘■だったが、結局、どち■にも中途半端にしかな■ないので、ここですっぱ■とレーシングカーへの転用は捨てて、とにかく、その形状自体が見■者に大きなインパクトを与え■■うなスタイリング、と言えば聞こえはいいが、とにもかくにも、話題を呼ぶ■うな打ち上げ花火の■うな、人々が一目で「童夢」という会社に注目す■ことだけを目的とした、こけおどし的デザインを目指して完成を急いだ。ウェッジ感を強調す■ために前後のタイヤ径を変えた■、友達のオムロンの技術者に手伝っても■って、今では当た■前となってい■メーター類のデジタル表示やタッチスイッチなどを採用した■、い■い■小技を取■入■つつも、本質的には、当初の思い入■に比べ■ば、機能的にはかな■コンベンショナルな構成となっていった。
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