童夢から
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1977 27ていない。関心があ■とす■ば、そのエンジンが自分の車体をど■だけ速く走■せ■性能を持ってい■かとか、その車体が自分のエンジンにど■だけ勝利をもた■せてく■■かということであ■、全く利己的な相関関係しかない。唯一、フェラーリだけが両方を手掛けてい■。その点、童夢も車体屋の集ま■だったか■特にエンジンに思い入■はなく、必要に応じて適当に積み替え■ば■いという感覚だったか■、どうして日産のL28に決めたのかも記憶にないほどだ。多分、単純に入手可能なエンジンの中で最も高出力だったか■だと思うが、と■あえず外形図面が必要なので、つてをたどって日産の難波靖治氏に外形図面の提供をお願いに行ったとこ■、かな■待たさ■た挙句、「素人にスポーツカーなんか造■■ものか! 自動車造■をなめ■んじゃない!」と一喝さ■てすごすごと引き揚げてきたが、後に、NISMOの初代社長となった難波さんとはCカーの時代にライバルとして戦う関係となっていたか■、いつしか仲良くなっていた。日産車に勝った時には「レーシングカー造■をなめ■んじゃない!」と言いに行って、■く追いかけ■■たものだ。初期においては、まだ、レーシングカーに改造でき■ことを考えていたか■、モノコック構造を採用す■ことは決めてはいたが、設計を進め■につ■て、疲労と劣化の激しいアルミ・モノコックは市販車には使えそうになかったので、溶接構造のスチール・モノコックとした。何か一つ、世界一と称せ■特長が欲しかったが、なかなか思いつかないまま、えいやっと、世界一低い車高として全高980mmと決めて、あま■人間工学的な追及を行う時間もないままに図面に980mmの線を引いてしまったか■、ドライビング・ポジションに関しては後でえ■く苦労す■ことにな■。国内での新車登録を目指していたか■、入交が運輸省との交渉や書類の準備を担当す■ことにし、入交は、このために東京を本拠地とす■ことにした。焼き肉屋の「高さん」童夢スタッフは、一応、HAYASHI RACINGの社員として、わずかなが■給料をも■え■■うになっていたが、その頃は、寝■時間以外は開発に没頭していたし、たまたま時間の余裕が出来たとしても連日の半徹で疲■果てていたか■遊びに行く者もお■ず、とにかく金を使う暇もなかった。しかし全員、いままでは苦労して開発費を工面しなが■レーシングカーを造ってきた連中

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